家族から3年間の約束を貰えて、その間の留学費は保証されたが、北里闌自身、いつまで滞在するかは分からない私費留学であった。南仏のマルセーユ港に上陸し、そこから汽車に乗り、バイエルン王国の首都だったミュンヘンに直行した。ミュンヘンを選んだのは、森鴎外の「ミュンヘン大学にはリップス教授が居るので、そこで独文学をよく学び、古典をも理解できる能力を養へ」という助言に従ったからであった。
日本でドイツ語の会話を勉強したと云っても、独学ではその能力はたかが知れていた。ミュンヘン大学で講義を聴いても「最初はまったく理解できなかった。自分の知っている事を言われれば理解できるが、肝心の知りたいと思うことを咀嚼していると、次に言われた事は全く聴きもらすという有様」であった。そのため闌は高価な代価を払い、大学の文科助教授宅に通ってドイツ語の個人レッスンを受けることにした。
「外国人がドイツ語をマスターすることはとうてい不可能だ。本気でやりたいのならば、まず英語を忘れよ。次に可能ならば日本語をも忘れて、ドイツ語でなくては自分の意志を発表する機会は無いと思ってドイツ語に猛進するならばべつであるが、そうでなければ個人レッスンも無益だ。それでもやる気があるか」とその時問われた。闌は、2・3日考えに考えて「ここで足踏みをして、後ずさりしたならば一生のもの笑いとなるばかりだと大いに自分をふるい立たせて、必ずやってお目にかけます」とドイツ語の先生に返事をした。
「この決死の願望を達成するための苦労は実に悲惨なものだった」とのちに述べているが、その苦労の甲斐があって闌はドイツ人以上の見事なドイツ語力を一年ほどで身に付け、個人レッスンのドイツ人教師を大変に驚かせた。
北里柴三郎は、熊本医学校で恩師マンスフェルトの助教を務めた関係からオランダ語はかなりできたものと思われ、東京大学の教授の多くがドイツ人であり、講義や試験はドイツ語で行われたいたようである。そのためかベルリンのローベルト・コッホ研究所に着いた時、北里柴三郎がよどみなくドイツ語の読み書きができるのに、コッホ研究所のドイツ人研究者が驚いたとの逸話が残っている。
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