日清・日露戦争での海軍と陸軍での脚気

 高木兼寛の「麦飯による脚気を予防する」説に異論を唱えたのが、石黒忠悳や森林太郎を中心とするドイツ医学を支持していた東大一派で固められた陸軍の軍医達でした。そもそも、海軍と陸軍とは対立関係にありました。その上、学理を重視するドイツ医学の陸軍と疫学を重んじるイギリス医学の海軍との抗争の構図になっていました。

 海軍での木兼寛の脚気に関する活躍を聞いた石黒忠悳は、1885年に木兼寛の兵食原因説を非難し、脚気の原因は細菌の感染によるものだとの論文を発表しました。また東大の緒方正規は、「脚気病原の細菌を発見」したという論文を大々的に発表し、高木兼寛の食物原因説を真っ向から否定してかかりました。

 ドイツ医学を日本の医学の主流とし当時としては最新の細菌学に間違いがあるわけがないという強い自信のもと、当時の東大一派は脚気に関しては間違った方向へと進んでしまいました。陸軍の石黒忠悳や森林太郎は、海軍軍医の高木兼寛の説に耳を傾けることもなく、白米中心の兵食を改善することはしませんでした。その結果、陸軍の脚気患者の数は何年たっても減少することはなかったのです。

 1894年に日本政府は、清国に宣戦布告し日清戦争が始まりました。白米の陸軍と麦飯の海軍における脚気患者の数は、歴然としたものとなりました。記録によると、海軍では脚気患者は一人もでなかった。ところが、陸軍では四万人を超える患者で、入院患者の四分の一が脚気で、銃砲で傷ついた傷病兵数の11倍の兵士が脚気であり、死者は四千名を超えたようです。

 日清戦争から10年後の1904年に日本は、ロシアに戦線布告し日露戦争が始まりました。日清戦争であれだけの脚気による被害を出したにもかかわらず陸軍は、やはり白米で日露戦争に臨んだのです。一方、麦飯で日本海海戦に臨んだ海軍は105名の脚気患者を出しました。しかし、陸軍は25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にしたのです。日清戦争と日露戦争で、陸軍では脚気による兵力の低下が甚だしかったようですが、海軍は兵力の低下もなく、海戦で歴史に残る勝利を収めたのでした。