軍医森林太郎と文豪森鴎外

 1905年になって陸軍では、兵食には白米に麦を混ぜたものを支給するようになりました。麦飯を採用してもすぐに脚気の食物原因説を認めることはなかったのです。石黒忠悳、森林太郎と青山胤通らの麦飯反対派は、責任をとることもありませんでした。その結果、海軍や世論から激しい非難を受ける結果となりました。ところが、反麦飯派の代表である森林太郎が1907年に陸軍の医務局長に就任し、脚気は細菌による伝染病だという説を主張していました。

 陸軍軍医で森林太郎の直属の上司であった石黒忠悳や脚気菌を発見したという論文を発表した緒方正規は、晩年になって自説の誤りを自ら認めました。しかし、日清・日露戦争の脚気による死者に対して陸軍の最高責任者であった森林太郎は、61歳で人生を閉じる最後まで脚気菌原因説の非を認めずにこの世を去ったのでした。

 「舞姫」などを著した文学者・文豪としての森鴎外に対して非難・批判を加える者は日本全国に一人も存在しないでしょう。しかし、医師としての森林太郎は、陸軍軍医総監という最高位にまで上り詰めたが、医学の分野では後世に残る論文もなく、ドイツに留学したときも大した業績を残していません。また、高木兼寛が東京帝国大学から医学博士の学位を授与され、更に男爵位を授与れると、「麦飯博士とか麦飯男爵」と揶揄したそうです。更に、東大農学部教授であった鈴木梅太郎が「米ヌカから抽出したオリザニン(ビタミンB1)が脚気を予防する」との論文を発表すると、「百姓学者がなにを言うか、米ヌカが脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」と言ったというのです。これらエピソードの真偽の程は判りませんが、多くの書籍に記載されています。医者から見た医師・森林太郎については土屋雅春著「医者のみた福沢諭吉」を、軍医として国際的な業績を残した高木兼寛については吉村昭著「白い航跡」を、脚気については板倉聖宣著「脚気の歴史」を参考までに読まれることをお薦めします。

 日清戦争と日露戦争における日本陸軍の兵士が受けた被害は、責任者が脚気菌を信じ食事原因説を否定したために拡大し、対戦国である清兵やロシア兵の銃弾によるものでなく、脚気によると言えそうです。日清・日露の両大戦に日本が大国に勝利したのは、疫学を直視し脚気菌よりは兵隊の食事の改善を敢行した高木兼寛が医療衛生を担当した海軍による日本海での海戦における勝利に負うところが大なのです。

 この歴史に残る悲劇は、単なる米飯の陸軍と麦飯の海軍の闘いでなく、「面子と正義なき強情に流された森林太郎」が東大教授である緒方正規の論文を批判した北里柴三郎に対するアテコスリ的批判が問題なので、確固たる証拠を無視した情報は時として間違っていることがあることを認めることが出来ない人間の産んだ悲劇と思われます。「状況証拠を大切にした高木兼寛」は、脚気から人類を救った医科学者であったと思います。北里によると「学問に疎い者(森林太郎)が学問を人情とすり替えて誤魔化すのは如何か]となります。



数冊の参考書を紹介して「暁の脚気菌」を終わりにします。
参考書
 「白い航跡」上下、吉村昭著 講談社
 「医者のみた福沢諭吉」 土屋雅春著 中公新書
 「脚気の歴史」 板倉聖宣著 つばさ書房
 「模倣の時代、上下」 板倉聖宣著 仮説社
 

[完]