脚気菌事始
 1890年代は細菌学の黄金時代と良く言われます。それは、病気は悪い空気によって起こると考えられていたが、ドイツ人のローベルト・コッホによって病気は肉眼では見ることが出来ない微細な生き物によることが初めて証明された瞬間でもありました。一生懸命に探せば必ず病気の原因である細菌が見つかると信じさせるに充分な発明発見が続きました。その結果、多くの学者により多種類の病原細菌が相次いで発見された時代もありました。赤痢菌の発見者である志賀潔による「細菌学を創ったひとびと」に細菌学の黄金時代の人々が詳しく描かれています。

 1885年から1886年にかけて、東京大学の緒方正規が「脚気の病原細菌を発見」と発表したことから脚気の原因についての騒動が始まりました。緒方正規は、北里柴三郎とは同郷人で、熊本医学校では同じマンスフェルトからオランダ医学を学んだか一歳年下でした。しかし、北里柴三郎は、東京に出てくるのが少し遅れたことから、緒方より遅れて東京大学を卒業した北里に対して、緒方正規は細菌学の基礎技術を北里に教えた先生でもありました。脚気菌発見のニュースはドイツにも伝えられ、ローベルト・コッホの第二の高弟であり緒方正規の師でもあるレフレルが、コッホ研究所にいた北里柴三郎に対して「科学では、たとえ恩師の説であっても誤りは指摘しなければならない」と諭したものですから、北里は細菌学者として黙認できないと緒方の説を批判する論文を発表しました。

 「舞姫」などの文学作品を発表して高い評価を受けていた森鴎外は、森林太郎という東大医学部卒業の陸軍軍医で、緒方正規を批判した北里柴三郎を感情的に激しく非難する論文を発表しました。それに対して北里もすぐさま反論し、「森林太郎の説によれば、北里は知識を重んじるあまり人の情を忘れたとの事であるが、私は情を忘れたのではなく私情を抑えたのである。学問に疎い者が学問を人情とすり替えて誤魔化すのは如何かと思う」と決め付けた。  鹿児島出身で英国医学を学び、海軍から英国のセント・トーマス医科大学に官費留学し、そこを首席で卒業した高木兼寛が1880年に海軍軍医として復職しました。海軍病院に入院している患者の半数が脚気であることに驚きました。イギリス滞在中の5年間にセント・トーマス病院では、脚気の患者は一人も見られなかったし、イギリス人医師は脚気という病気すら知らなかったのです。そこで、1878年の海軍統計調査を調べ、当時の日本海軍の総人員は4528名でその中脚気患者数は1485名でありました。驚くことに海軍総人員の32.8%が脚気の患者であったのです。

 更に高木兼寛は、数隻の軍艦がホノルルを経由してサンフランシスコへ、またはオーストラリアのシドニーへと遠洋練習航海をした時の記録を調べ、いずれも外国の港に停泊中には脚気の患者は出なかったが、帰港途中から患者が増えていることに気づきました。1882年には9ヶ月にわたる長い航海から帰ってきた軍艦の事件が高木兼寛を大変に驚かしました。

 ペルーからホノルルに向かう途中から脚気患者が続出し、乗組員378名中150名が発症し、そのうち15名が死亡したのです。しかし不思議なことにホノルル停泊中に脚気患者の発症は消えてなく、患者も徐々に回復していました。ところがホノルルを出航し日本に戻ってきたときには、乗組員の169が脚気に罹り死亡者は23名にのぼりました。

 高木兼寛は、脚気は白米を主食にすると発症するが、パンや肉の食事を外国の港で食うと脚気は治ると感じました。そこで高木は大蔵省と交渉して特別な航海費を出してもらい、白米の給食と麦を混ぜた麦飯を提供する軍艦を二隻航海にだす実験を行いました。その結果、白米の戦艦では150名の患者が出て23名が死亡しましたが、反面麦飯の戦艦では脚気は皆無であることが確認されたのです。

 海軍軍医本部長となっていた高木兼寛の兵食改善により脚気を予防する研究は、輝かしい成果を残し、その秀でた力量は明治天皇にまで知られるようになりました。しかし、全ての人が高木兼寛の成果を褒め称えたわけではなく、科学に率直でなく面子のみにこだわる医師集団がいたのです。