最終身分は東京大学内科学の教授で学長・男爵 | |
1882年 |
東京帝国大学医学部を卒業(第四期生) 卒業後直ちに官費でドイツに留学 |
1887年 | 帰国して東京大学医学部の教授となる |
1891年 | 帝国大学の推薦で北里柴三郎(後述)などと一緒に医学博士の学位を授与される |
1894年 |
香港で大流行したペストの研究のために北里柴三郎と一緒に香港に派遣される 香港滞在中ペストに感染して九死に一生を得た |
1901年 |
緒方正規(後述)の後任として学長に就任する その後16年間学長を勤め、日本医学界に睨みをきかせた 明治天皇や大隈重信総理大臣の主治医を勤める 脚気は細菌による感染症との緒方正規の説を死ぬまで主張し、食事によることを認めなかった |
岐阜県出身、1917年に58才で死去 | |
最終身分は陸軍軍医総監・子爵 幕末に西洋医学所に学び、維新後は大学東校(後に東京定刻大学の医学部)の少助教を経る |
|
1871年 | 兵部省(後に海軍と陸軍に改組)に入る |
1887年 |
森林太郎(後述)の上司、陸軍軍医監で内務省四等出仕の身分で第四回万国赤十字国際会議に日本の代表として参加した その時森林太郎をドイツ語の通訳として使う 石黒忠悳、森林太郎と青山胤通の三人は、脚気という病気は細菌の感染によると主張し続け、高木兼寛(後述)の食事原因説を否定した 貴族院議員、日本赤十字社の社長を勤める 晩年になり自己の間違いを認める |
1845年生まれ1941年に死去 |
最終身分は東京大学医学部衛生学の教授で学長 | |
1880年 |
東京帝国大学医学部を卒業(第二期生) 熊本医学校で北里柴三郎と同級生であったが年齢は北里より一つ下 卒業の年にドイツに官費留学 ミュンヘン大学でペッテンコーフェルについて衛生学を学ぶ ベルリン大学でレフレフルに細菌学を学ぶ 帰国後東京帝国大学と衛生試験所を兼務 |
1883年 | 北里柴三郎に細菌学の基礎的な手技を教えた先生でもある |
1885年 | 東大医学部講師のとき「脚気病毒の発見」を官報に発表 |
1886年 |
脚気菌発見の第二報を発表し、一躍有名となる この年東大医学部教授として衛生学を担当し、細菌学の基礎を築く |
1898年 ↓ 1901年 |
東京大学医科大学の学長 脚気は細菌の感染によるとの説を主張した |
1854年熊本に生まれ、1919年に死去 |
最終身分はドイツ国のプロフェッサー・北里研究所所長・男爵 | |
1871年 | 熊本医学校に入学、マンスフェルトに師事してドイツ語でオランダ医学を学ぶ |
1875年 | 東京帝国大学医学部に入学し(入学の上限が19歳であったので年を4歳若く記載) |
1883年 | 東京帝国大学医学部を卒業(第五期生) |
1885年 | ドイツに官費留学しローベルト・コッホに師事する |
1889年 |
「緒方氏の脚気バチルレン説を読む」と題する緒方の脚気菌発見を 細菌学としては基本的に間違いと批判する論文を発表 |
1889年 | 世界で最初に「破傷風菌の培養に成功」 |
1891年 | 帝国大学推薦で医学博士の学位を授与される |
1892年 |
ドイツより帰国した 日本政府と東京大学派は、北里に職を与えなかった |
1892年 | 暮れに福沢諭吉と森村市左衛門により私立伝染病研究所を設立して貰う |
1894年 |
香港で大流行したペストの調査に香港に派遣される 現地でベストを研究してペスト菌発見し、7月31日に帰国した その翌日の8月1日に日清戦争が始まった |
1853年熊本に生まれ、1931年に78歳で死去 |
最終身分は海軍軍医総監・男爵 | |
鹿児島医学校(藩立開成学校)で英国人医師ウイリスより英国医学を学ぶ 明治維新には薩長連合軍の医師として江戸から会津まで従軍 |
|
1875年 | 帰国し、東京海軍病院の院長 |
1883年 |
海軍医務局長となり後に海軍軍医総監となる 脚気撲滅の大功績者 東京帝国大学とは無関係で稀な秀才 |
1888年 |
帝国大学(東京大学)の推薦による日本で最初の医学博士となる 慈恵会医科大学の創立者 |
1849年に旧薩摩藩(宮崎県高岡町)で生まれ、1920年に70歳で死去 |
慶応義塾長 | |
1855年 | 緒方洪庵の大阪適熟に入りオランダ医学を学ぶ |
1860年 | 南北戦争が始まる |
1867年 |
慶応義塾(と改称)の創立者 北里柴三郎がドイツ留学から帰国しても政府は冷たく失職状態においたので、 私財を投入して北里柴三郎のために伝染病研究所を建設し、 その後も引き続いて北里柴三郎の最大の理解者であった 麦飯や牛乳の愛好者で脚気にはならなかった |
1835年大阪堂島の中津藩(大分県中津)屋敷で生まれ、1901年に68歳で死去 |
最終身分は陸軍軍医総監(文豪) | |
1874年 |
第一大学医学校(1877年東京大学医学部と改称)予科に12歳で入学 (入学は14歳以上と定められていたので1860年生まれと2歳年上に記載) |
1876年 | 東京医学校本科に進学 |
1881年 | 東京帝国大学医学部を19歳で卒業(第三期生) |
1884年 | 陸軍からトイツに留学し、ペッテンコーフェルから衛生学を学び |
1888年 | 帰国し、陸軍軍医学校教官となる |
1890年 | 「舞姫」を発表し文学者としての地位を確立 |
1891年 | 帝国大学推薦で北里柴三郎と一緒に医学博士 |
1907年 |
陸軍軍医総監と陸軍省医務局長となり、陸軍軍医の頂点に立つ ドイツ医学の信奉者で脚気が食事によることを生涯認めなかった 日清・日露戦争で陸軍が25万人もの脚気の患者を出した責任者の一人 |
1862年津和野藩(島根県)に生まれ、1922年に61歳で死去 |