4.「亀の甲シャーレ(北里コルべン)」の由来
亀の甲シャーレは、現在でもヨーロッパでは北里コルベンと呼ばれて嫌気性菌の培養に使われています。この亀の甲シャーレの特徴は、ガラス管とゴム管を使用して、何個でも連結できること、培養された細菌の形状や数を外から観察できること、さらに一個だけを連結から外してその中で増殖した集落を取り出すこともできることです。
「4)破傷風菌はどこにいく」に示してある亀の甲シャーレの由来について簡単な説明を記します。亀の甲シャーレは、いま現在に至ってもヨーロッパでは一般に使用されています。ところが国内には、北里研究所を含めてどこを探しても見つからない。
ところがある日、北海道大学医学部細菌学教室の木村主幸(かずゆき)先生から、細菌学教室の倉庫に著者(田口文章)が探している「亀の甲シャーレ」と思われるガラス容器が一個あるのを見つけたとの連絡受けました。そこで早速に木村主幸先生 (当時助手)に確認したいのでそのガラス容器を貸して貰えないかと伺いをたてました。それほど貴重な容器であるのなら、それは北大の宝物だから貸し出せないと微生物学教室の主任教授から言われてしまいました。
木村主幸先生は、北里大学大学院衛生学研究科の修士課程で微生物学を専攻し、その後北大大学院医学研究科の博士課程で微生物学を専攻しました。課程を修了後、北大細菌学教室の助手に採用され、最も若い教室員であるために物品や倉庫の管理も任されていたようです。
いま現在は、北海道工業大学で研究科長・学部長・教授をされている木村先生(当時)を介して北海道札幌市の株式会社ムトウのガラス工房で一番年季の入ったガラス職人に亀の子シャーレの複製の製作を依頼して貰いました。オリジナルの亀の甲シャーレから木型を作り、それをもとに20個のコピー作ってもらえました。
20個のコピーを作ってもらった亀の甲シャーレは、熊本の北里柴三郎先生の生家、明治村の北里研究所本館(日本医学館)、北里研究所の北里柴三郎記念室に寄贈し、残りの一部は北里大学全学部の微生物学教授に1個宛記念品として寄贈しました。そのうちの1個がここに写真とした展示してある「亀の甲シャーレ」です。
さてどうして北海道大学の細菌学教室の倉庫に「亀の甲シャーレ」が残っていたのでしょうか。私の記憶では、伝染病研究所(伝研と略称)の所長北里柴三郎先生のもとで助手をしていた「中村豊」先生が北海道帝国大学の教授として札幌に赴任し、細菌学を担当した。
この中村豊先生が北海道大学医学部細菌学教室の初代教授として勤められました。札幌に赴任する折に中村豊先生は、伝研で使っていた亀の甲シャーレを何個か北海道まで持参したものと推測していました。
そこで今回ここに「亀の甲シャーレ」を展示するにあたり、その出所を確認する作業を開始しました。北海道大学大学院医学研究科の教授「玉城英彦」先生(北里大学衛生学部卒)に北海道大学医学部細菌学教室の初代教授は誰であったのかを調べてくれるよう依頼しました。大変に多忙な玉城先生ですが、これが唯一の資料ですと「北海道大学医学部細菌学教室同門会が編集発行した会誌(3) 中村豊先生追悼号 1975」のコピーを送ってきてくれました。
その記念号の内容を詳細に調べた結果、次のような記載を見つけ出すことができました。北里柴三郎所長のもとで中村豊先生は「伝研に5年間在籍し、破傷風菌の仕事をさせられた」と記載しています。その中村豊先生が創立間もない北海道帝国大学医学部に赴任し、細菌学を担当しました。この中村豊先生が北大細菌学教室の初代教授を拝命した。
北海道に赴任する際、亀の甲シャーレを持参したように推測されます。「北海道大学医学部細菌学教室同門会誌(3) 中村豊先生追悼号 1975」に記載されている記録によると、「ボツリヌス食中毒に遭遇するまで嫌気性菌の仕事は忙しくてできなかった」と中村先生の記載があります。
「亀の甲シャーレ」と「北里式濾過装置(タンパク濃縮器)」は、著者田口が助教授であった時文部省の海外研修生としてパリのパストゥール研究所やベルリンのローベルト・コッホ研究所に滞在した折、偶然にその存在知ったことがことの始めとなりました。
次は北里大学大学院衛生学研究科の修士課程でインターフェロンを研究した「木村主幸助手(当時、現北海道工業大学学部長・教授)」が北大医学部細菌学教室倉庫に1個だけ残っていた「亀の甲シャーレ」を見つけ出してくれました。
最後に北大細菌学の初代教授が「中村豊先生」で、伝研に5年間勤務し破傷風菌の仕事をさせられたとの記載のある「細菌学教室同門会誌」の存在を見つけ出してくれたのが北大医学研究科教授「玉城英彦先生」でありました。北里関係者の力を思われる奇遇な経緯を経たことをここに記します。
終わり