ウイルスの生態学を応用した疾病対策

 ウイルス病に立ち向かうために人類が用意している武器は抗ウイルス薬とワクチンです。細菌性疾患と違ってウイルス病に対する抗ウイルス治療薬は極めて限られていますが、感染ないし発病予防の目的のワクチンはよく開発されています。しかし、折角開発された有効なワクチンもこれをうまく使う戦略が必要です。これまで述べてきた病原ウイルスの生態学はこの戦略の立案に優れた示唆を与えてくれます。以下2、3の例を挙げながら説明することにします。
z  天然痘は過去3,000年以上にわたり人類を苦しめてきた伝染病で、1796年ジェンナ ーにより種痘という優れた予防法がありながら、つい最近まで毎年数十万の患者が世界で報告されていました。WHOは従来のただ種痘を普及させればよいという天然痘対策を改めて、ウイルスの生態学的特徴つまり、
 1)ウイルスはヒトからヒトへ伝染する
 2)伝染源は発症した患者である
 3)自然界に保菌者はいない
と云う事実を利用して、まず患者を探し、隔離すると共に、その周辺に徹底的に種痘を行うと云う新しい戦略を立案し、1966年のWHO総会で10年間で天然痘を撲滅すると云う決議を採択しました。その結果新戦略実行の1967年には世界で33ケ国あった天然痘常在国が1973年にはインドをふくむ6ケ国に激減しました。当時インド政府はWHOの戦略を採択しなかった結果年間10万人に達する患者発生が見られていました。事態を重視したインド政府は直ちにWHO戦略を実行に移した結果、図5のように1974年には一時極めて多数の患者発生が検出されましたが、患者の隔離と周囲の徹底的なワクチン接種に努めた結果、翌1975年に天然痘の根絶を達成しました。WHOは1977年正に公約通りソマリアの患者を最後に世界から天然痘の根絶に成功したのです。
 ポリオウイルスは天然痘ウイルスと同じくヒトからヒトへ受け継がれていますが、違う点は不顕性感染者が存在し患者同様感染源となっています。
 そこで感染源探しは諦めて広範囲のワクチン一斉投与により一気に感受性者を消滅する作戦がとられます。図6に示すように、日本では1960年まで毎年ポリオ患者の爆発発生が報告されていましたが、1961年国民の大運動により、当時ソ連で画期的成功を収めたセービンの生ワクチンを導入し、国民への一斉投与に踏み切りました。
 その結果、図6のように1962年以後ポリオは激減し、1970年代以降日本から野性株ポリオウイルスは根絶したと考えられています。

 一方南米のブラジルでは図8のように1970年代から有効な生ポリオワクチンを使用しているのに広大な国土の為にワクチンの一斉投与に踏み切れず患者発生は毎年200名前後のよこばいでした。そこで、政府は1980年から毎年2日の「ポリオの日」を設け軍隊まで動員してポリオワクチンの一斉投与を開始しました。結果は歴然と現われ毎年のポリオ患者は1/10以下に激減しました。1990年に入りポリオの日を3日に増やしたところ遂に野性ポリオウイルスの根絶に成功したようです。ポリオの場合には「ワクチンの一斉投与」がキーワードのようです。
 B型肝炎の日本での蔓延度は欧米に比べて約10倍高く、国民の2%程度であった。これらのキャリアーの大部分は生後1年以内におこる母子感染によると推定されています。そこで日本では独自に1985年から母子感染予防対策として、B型肝炎ウイルスキャリヤーから生まれた子に生後直ちにB型肝炎免疫グロブリン1mlを投与、2、3、5ケ月後に組替えB型肝炎ワクチンを0.25 mlを1回宛投与する事業を開始した。この結果現在子供のキャリヤー率を1/10に下げることができました。WHO始め米国では全児童にワクチンを投与するいわゆるuniversal immunization方式をとっているのに対し、日本の方式はウイルスの生態学的知識を応用した優れた戦略と云えましよう。
追記:
大谷明元北里大学客員教授の「病原ウイルスの生態学」は、北里大学衛生学部微生物学教室創立35周年記念誌「旅」のために創作された「病原ウイルスの生態学」を再掲載するものです。
文責 田口 文章
2004年12月04日

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