遣稿「回想録」から 志賀 亮 シガ マコト

 「故人の業績については長木博土が書かれるから、それを補うような事をとのお話で、あれこれ思案の末に筆をとる。……私は同じ理科系ながら別の道を進んだのだが、父志賀潔の晩年戦争末期に郷里へ疎開してからの十余年、生活を共にしていた。その間父が回想記などを執筆する時、資科を集めたりロ述筆記などの手伝いをした。……今原稿用紙と一緒に、二、三の単行本やおびただしい切り抜きの類を机上に並べたまま、想案をたてたりこわしたり、幾月かを無為にすごした。資料が多すざて、何を選び、どのようにまとめるめか問題なのである。その上肉親について語るのは、なんとも筆が渋る。……結局生い立ちから晩年まで四期に分けて年譜を整理し、その間を遺稿からの父の言葉と、若干の私の注記とでつないでゆく事にする」。



 1871年2月5日(旧歴で明治3年12月18日)宮城県士族佐藤信の第4子(3男)として仙台に生れる、幼名直吉。父は、伊達藩の下級藩士で副奉行つきの書記を務めていた。5歳の頃から父の家塾で漢書の素読を学ぶ。8歳仙台市育才小学校(現片平町小学校),13歳宮城中学(現仙台−高)。この頃母の生家志賀を継ぐ事になり名を潔と改む。志賀家は岩手県花巻の出、五代前から仙台に来り医を業とす、先々代は藩医となり士分であった。

 1887年、東京に遊学。しばらく予備校に学び、翌年大学予備門 (後の旧制一高),1892年、帝国大学医科大学(後の東大医学部)。

 ……私の生い立ちの頃は、300年の幕藩体制、鎖国主義から脱した日本が、自由民権とか文明開化とかいうかけ声の下に大急ぎで泰西文明の吸収に勉め始めた時である ……明治5年学制が発布されて、寺小屋式の教育から西洋式の学制が曲りなりにも形を整えてきていた。中学に進んだ頃、福澤諭吉の西洋事情、世界國盡を読んでは遠い西洋の文明国に夢を走らせ、学問のすすめを読んでは、少年の心、にも何か新しい時代の自覚ともいうべきものが芽生えてきた。……

 ……日本の片隅で私が少年時代を送っていた十余年の間に、細菌学の分野はどのように拓かれていったか。フランスの天才パスツールは産辱青熱の研究,鶏コレラ菌の免疫反応、狂犬病予防接種と跳進をつづけていた。イギリスの敬虔な医師リスターはパスツールの病原微生物説を創傷滅菌法にとりいれて、ここに外科手術の操技は画期的な進歩をとげた。ドイツでは地味な道をこつこつ歩いていたコッホは、脾脱疽菌の人工培養に成功し結核菌の研究を完成して、細菌学の研究方法に、確実な基盤を築きあげたのである。1880年代に入ると、これら先人たちに拓かれた細菌学の分野では、絢爛たる花が開き、つぎつぎに実を結んでいった。この年代は細菌学史上特にエイチインエイチイズと呼び病原菌探究の景も華やかな時代である。微生物界の獵人らが、われもわれもと競いたち凱歌は至る所にあがって病原菌発見の報告が相ついで発表された。……併し東北の小都市で教育を受けていた私は細菌学のさの字も知らずパスツール、コッホの名さえも知らなかった。ついでに言えば後年私が学んだ基礎医学の教程でも細菌学はまだ独立していなかった。……

 ……17歳青雲の志に燃えて上京、予備校1年、高等中学3年、医科大学4年,この8年が私の修業時代である。殖産興業、富国強兵、これがこの頃の時代の標語であった様だ。憲法は発布され帝国議会は開かれ、やがて宿願の不平等条約の改正を果たし日清戦争には驚異的な勝利を収めて、日本は開国30年にしてアジアの第一等国と自称するまでになった。私共は好きな時代に好きな学生時代を送り得たと言えよう。……この頃の学界の情勢を少し眺めてみると、私の修学時代は1890年を中にはさんだ前後10年である。病原菌発見の華やかな舞台はなお続いていた。先人に依って拓かれた肥沃な預野で、結実期の収穫に目のまわる様な忙しい時代であったとも言えよう併し1890年頃を境にして細菌学はその主流の方向を転じつつあった事がうかがわれる。即ちそれまでは微生物の病原性の同定や生物学的な研究が中心であったのが、その頃から細菌の病理学や免疫反応、またそれに基づく治療法の研究へと中心問題が移っていったのである。而してこのすう勢に先鞭をつけた1人はコッホ研究所にあった北里先生であり、免疫現象を解明して血清療法の基礎を造ったのが、たまたま同研究所の客員であったエールリッヒ先生である。……




 1896年、医科大学卒業、26歳、直ちに伝染病研究所に入り、北里柴三郎先生に師事する。
翌1897年12月、赤痢に関する最初の研究を発表。
 1901年、ドイツ留学のため渡欧、フランクフルトの実験治療研究所でエールリッヒ先生に師事する。化学療法の最初の研究で先生の助手を務める。
1905年、帰朝、医学博士。
1906年、第一回熱帯病学会(フィリピン)
1909年、二回同学会(インド)に出席。
 1912年、渡欧、万国医学会総会(ローマ)に出席。フランクフルトで再びェールリッヒ先生に師事、結核の化学療法を研究。
1913年帰朝。

 ……私はなぜ医業を修めたか  養家が医業だったから。なぜ基礎医学の方に進んだか?。 病人を看る職業は私の性に合わないと思ったから。然らばなぜ細菌学を選んだのか?。この答えは簡単でないが、当時の細菌学が新興科学随一の花形であった事も理由の一つだろう。もっとも大学ではまだ独立の講座がなく、細菌学は緒方正規先生の衛生学の片隅で講ぜられ、実習の時間もなくて、講義のあとで細菌というものを顕微鏡で順に覗かせてもらった。卒業するとすぐ入所試験を受け伝染病研究所に入ったが、ここで先輩から初めて細菌実習の手ほどきを受けたのである。

 ……今まで繰り返し述べたように、私の赤痢研究は北里先生の懇切な指導の許になされたものである。私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の共同研究者というより、研究助手というのが本当だった。然るに研究が予想以上の成果をあげて論文を発表するにあたり、先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前にするように言われた。普通なら当然連名で発表されるところである。赤痢菌発見の手柄を若僧の助手一人に譲って恬然として居られた先生を私はまことに有り難いことと思うのである。

 ……私は大変運が良かったのだとは私自身が一番認めるのだが、幸運の第一は当時細菌学の世界的ベテランであった北里先生から直接の指導を得たこと、第二はたまたま東京に於る赤痢の大流行に際会したこと、以上は改めて申すまでもない。この年流行の赤痢がいわゆる本型菌によるもので、これが分離しやすい菌種であったことも偶然の幸せだった。もし異型菌のどれかであったら、なかなか本体をつきとめられなかったろう。もう一つの幸運は細菌の凝集反応に関するヴィダールの研究が前年の末に発表されたことだ。チフス患者の診断に用いられたヴィダール反応を、いち速く末知病原菌探索の決め手として使ったのは私の手柄といえば手柄だろうが。こんな幸運が重なって私は赤痢の本体をつかむことが出来たので、同じ様な条件に恵まれれば赤痢菌の発見者となることは誰にでも、そうむずかしくはなかったろう。……赤痢の研究がー応まとまって、私は伝研二人目の留学生としてエールリッヒ先生のもとに行ったが、私はここでも大変好い巡り合わせに会った。ちょうど先生が免疫の基礎的研究を完成し、かねて宿志の化学的療法の研究に手を染められるその時期に際会して、化学療法の最初のお仕事の助手を命ぜられた。……

 以上自分の運が良かった話ばかりしたが、勿論何時もそうであった訳ではない。いや私の長い学究生活で、世界的に知られるような仕事をしたのは以上の3回だけで、あとは地味な研究ばかりに終始していた。第一に赤痢の研究にしても私は自分の半生をそれに没頭し、和文、欧文の論文20編はど書いているのだが、派手な仕事は最初だけで、あとは赤痢菌の分類とか疫学とか地味なことばかり、特に予防ワクチンは遂に完成でなかった。……赤痢以外では結核にも長年取り組んだが、初め有望と思った感作ワクチンも予期通りには発展せず、化学療法の方も2度目のドイツ留学以来,ア二リン系色素、青酸化合物、銅サルバルサン、最後にテルールと色々智恵をしぼってみたが、いずれもものにならなかった。癩菌の純培養に至っては朝鮮時代多少の野心を持って手にかけたが、先人の研究を一歩も出ず失敗に帰している。……

 ……もともと私は科学者として才能に恵まれたという自覚はなく、また生来明敏というよりむしろ遅鈍な性格で、学問の世界に身を投じて自家の学説を立て科学の新しい分野を開拓する如きは、自分の任でないことは自らよく知っていた。私のなすべき事、またなし得た事は、生来の器用さを生かし辛抱強い努力を重ねて、先人の拓いた道をたどってこつこつと仕事を続けて行くことであった。細菌学や免疫学がちようど開拓時代を過ぎて多忙な収穫時期になっていたので、私のような遅鈍な者にも成し得る仕事がいくらでもあったのは、私の幸せであった。……師に恵まれ、同僚学友に恵まれ、有能な協力者や助手に恵まれて、私の志した医学の発展に貧しいながらも若干の足跡を残し得たことは、自らの慰めとする所である。ただ顧みていささか遣憾に思うのは、朝鮮に職を奉じて教育や衛生行政にも関与することになり、学者として最も油ののつた時代というべき50代の10年間を学問−本に傾注することができなかった事である。……





 1914年、伝染病研究所の文部省移管に際し北里所長と行を共にして職を辞す。野にあって新研究所の創設に力を致す。
 1920年、朝鮮総督府医院長として渡鮮、京城医専校長を兼ねる。
 1931年までの11年間京城に在り、医学教育の他医事行政などにも関与する。
 1925年、欧米の大学視察のため渡行、ジュネーブ国際血清委貝会に出席。
 1926年、京城大学創立にあたり、医学部教授、同学部長となる。
 1927年、第7回熱帯病学会(インド)に出席。
1927年、京城大学総長に就任、在職2年7ケ月。

 ……2度目のドイツ留学から帰ったのは、1913年の6月である。一年余り日本を見ないうちに明治の御代は過去の時代になり、年号も大正と改まると共に、私の研究生活にも一段落が劃されて次の新しい時期に踏みださるベき思いであった。留学中の研究や調査をまとめたり……それらもようやく片付きフランクフルト以来の結核の化学療法研究を続けるベく準備が整った頃、思いがけない事態が発生して身辺は又にわかに多忙になった。いわゆる伝研移管問題の突発である。……この年(1914)は私の生涯にとって最も感懐の探い年である。即に10月、伝研の文部省移管に際し当局と所信を異にして職を辞した北里先生に従い、同僚20余名と共に野に下ったのである。……  ……ここに是非書きとめておきたいのは、この間に恩師エールリッヒ先生の訃音に接したことである。……移管問題の頃、即ち1914年の末頃には、先生の容態はかなり悪くなっていたのである。翌春になって大部健康を取り戻されたとマルクス博士から便りがあった。それで私は御見舞の手紙の中に、あまり御心配をかけない程度に今回の事件の経緯を報告した。やがて頂いた御返事に、北里教授とその門下のこうむったこの度の不幸には同情に堪えない。詳しい事は判らぬが、事情は推察するに難しくない。学問上の問題が学界以外の力で左右されるのは東西に間々見られる遺憾事だ。元気を阻喪せずに将末を期してほしい。という意味の事が書かれてあり、次のドイツの格言が添えて自分を励まして下さった。
   Ehre verloren, nicloren Gold verloren, nichts verlorn Mut

werlorn, alles verloren.
   名誉や財産を失ってもそれは何も失った事ではない、勇気を失った
   らそれは凡てを失った事だ。


 ちなみに記せばエールリッヒ先生の生涯はまことに恵まれた学究生活のように思われるが、必ずしもそうばかりでなかった。ユダヤ系の家に生れたので、社会生活の上で事ある毎に何かと不利な立場におかれ心労される事が多かった。それで今度の北里先生の悲運には格別の同情を表されたのである。この時頂いた手紙は、私にとって最後の御言葉であった。病中の先生の御心を煩わしたのを申し訳なく思うと共に, Mut verloren, alles verlorenの最後の御教訓をまこと有り難きことと思うのである。……その後,御容態が心にかかりながらも身辺の多忙にまぎれている内に、ある日の新聞に先生の逝去の報を見て愕然とした。いつかは悲報を手にする事とひそかに覚悟していたものの、今の自分らの境遇で先生の訃音に接しては、痛恨の情極まって悵然たるものがあった。

……新研究所の開所式に先立って北里先生は所員一同を集めて一場の訓示をされた。所屋建築の業新たに成るを以てここに部署を定め規律を設け更に大いに学業に励まんとす、諸子皆研究所をもって己が家としこれが発展を期せざるベからずという趣旨であったが、この時の状況が私の記憶にいまだに生きている。温厳な辞色でこれからの心構えを訓える先生に、白髪が目立ってふえた事に気がついた。先生はこの度の事件に身を挺して難局を見事に乗り切って来られた。今後もますます御元気であられるだろう。併し自分達はいつまでも先生に寄りかかっている事は許されぬ、これからは自分達の力だけで歩いて行〈ことに努めねばならぬ頭髪幾条かの白きを加えた先生に対して、こんな事を考えていたのである。自分のこういう思いのうちには、さき頃幽冥境を異にしたエールリッヒ先生の事も去来していた。私は40代の後半になって初めて自立の覚悟を深くしたのである。





 1931年、京城大学総長辞任、北里研究所顧問。
 1936年、ハーバード大学名誉学位。
 1944年、文化勲章。
 1948年、日本学士院会員。
 1949年、仙台市名誉市民。
 1951年、文化功労賞。  次に個人的な事頂をまとめる。
 1900年、山口県士族井街清顕の3女市子と結婚 (1901年 長男直、1905年 長女博子、1907年 次男亮、1909年 次女和子、1911年 3女治子、1915年 3男章, 1 917年 4男信男、1919年 4女祥子、誕生)
 1944年6月, 妻市子胃癌のため死亡(63歳)。同7月、長男 直 任地台湾より帰航の途長崎港外で遭難死亡(45歳)。1945年、郷里仙台に疎開、次いで宮城県坂元村(現山元町)に移る。1949年3月、3男 章 戦病癒えずして死亡(34歳)。
 1951年、満80歳の賀宴(北里研究所)。
 1957年、数えで米寿の祝年を迎えたが、1月中句より病床に臥し、同25日朝老衰のため永眠。28日告別式、29日仙台市葬、仙台市北山輪王寺に葬る。4月東京において北里研究所その他の主催で追悼会。

 ……昭和6年官を辞してからは閑散の身分になった。在鮮十余年,特に総長時代は身心を労する事多く、しばらく休養を欲していたので北研の方も経営の責務から免除してもらった。専門の方も第一線から退いた思い、研究所の一室を借りて好き勝手な勉強を続ける事になった。要するに学究人としても社会人としても予後備の役に立ったわけである。

 ……家庭では息子娘らにうちを持たせねばならぬ時期がきて、これは楽しみというより苦労の方が多かったと言わねばなるまい。併し親の青任をーつづつ果して孫の数もふえてゆく事は老後の喜びこれに如くものはなかった。趣味の南画に一番精をだしたのもこの頃である。……この平穏な老後の生活も余り長くは続かなかった。日支事変がおこり、やがて大東亜戦争となり、私ら一家も戦争の大きな渦の中に巻き込まれていった。 ……

 ……私の幼い頃、郷里の仙台藩は 辰の役に敗れて朝敵となり肩身の狭い思いをした。下級武士だった父は禄を失って家計は苦しかった。中学生の頃弟のために夏休みを小学読本の書写に過した事もある。不如意と窮乏の味は私の古い記憶につきまとっている。私がやがて80に手がとどく頃になって、祖国日本があのような姿に変わっていくのを見ねばならなかった。父を失った私の幼い孫達は、祖父の幼時にもまさる悲運と窮乏のうちに育てられた。まことに奇しき運命というより他ない。併し、あの時代を生きのびて、日の丸もひるがえり君が代を聞ける今日までに至ったのは、まずまず幸せと言うべきか。……

 ……話題は変わるが、この80年の間に細菌学は驚くべき発展を成し遂げた。パストゥールが当時としては破天荒の学説だった病原微生物説を唱えたのは、私の生れた頃の事である。それから十余年の間に細菌学研究の基盤はほぼ出来上ったと言えよう。その細菌学がやがて免疫学を生み、血清学が岐れでた。一方伝染病学、疫学の方に枝分かれして公衆衛生学の大切な基礎になってがた。臨床面では初期の予防ワクチン、治療血清の研究が始まり、20世紀科学の華と言われる化学療法が開拓され、抗生物質の発見で更に躍進を続けている。

 ……微生物の世界も、動物界では原生動物からプロトッオアへ、植物界ではバクテリアからリケッチアへ、リケッチアからウイルスへ、ウイルスから更に生物無生物の境界域まで広がってきた。而して之等一切を包含する奥底には生命現象の本元があり、遺伝学や高分子化学とも関連して、そこは新しい生命科学の色々な分野が拓かれようとしている。自分の様な老人には展望もきかぬまでに拡がってしまった。私の学生時代衛生学の一部分の様に思われていた細菌学が、かくも末広がりに弥栄えてきたのを眺めては、うたた感懐に堪えぬと言うより他ないのである。……



 「煩雑になるのをさけて、年譜には著作に関する事を省いたが、故人の著述生活も赤痢病設から年の回想録まで50余年に及び学究生活の中で加成の部分を占めたと思われる。ここに旧著回想の冒頭の部分を引用する」。

 ……私の初めての著作は赤痢病論と題した菊判200頁あまりの小冊である。明治34年 (1901) の刊行だから、すでに半世紀以上も昔の事になった。第2版の折、チフス病論を加え、第3版では他の消化器系伝染病を含めて伝染病論前編とし、その他の伝染病を同後編にまとめて全く面目を改めた。その後も版を重ねる毎に膨大なものとなり、大正3年の改版では四六判の大型に改め、前後編で1,000頁をこえるに至った。

 前の伝染病論とは別個に、明治42年細菌学及免疫学と題する解説書を著したのだが、これも斯学の発展に伴い、版を重ねる毎に大部冊のものとなった。……大正13年の震災で両著とも紙型が焼失したのを機会に全改訂を志し、細菌学及免疫学総論、同各論の二部とし、先の伝染病論前編後編はこの各論のうちに収めた。

 併し朝鮮時代の後半は雑務と俗用に時間をさかれる事が多く、自らも学界の第一線から退いた思いで、前の大冊の内容をアップツウデートに保ってゆくのが困難になり昭和2年の第10版で絶版とする事にした。而して京城大学での講義の経験を加味して斯学の大要を簡約に述べたのが,昭和3年初版の細菌学及免疫学網要である。この小型版も思いの他世に出て、昭和16年迄6版を重ねた。……

 以上の学術書の他晩年の著書に,「貴洋翠荘閑話」,「パウル・エ−ルリッヒその生涯と業績」,「ある老科学者とせがれとの対話」「ある細菌学者の回想」がある。