第49話
 知識は力なり
 

 
「主な対象読者」
 幅広い年齢層の方々に読んで頂くことを前提に原稿を書きました。強いていうならば将来の専門などの方向性をまた決めていない、高校生から低学年の大学生になんらかの刺激になることを期待しています。
 
 
本 文 目 次
 
 
著作 岸 悦三
 

 
 
第49話 知識は力なり
 
兵隊さんの対話
 昭和20年(1945年)7月の始めの頃でした。旧制中学1年であった私は、疎開先の徳島で日本軍の兵隊の指揮監督のもとで、動員学徒として戦災の後片付けをしていました。ときは第2次世界大戦(大東亜戦争と呼ばれていました)末期のことです。末期とはいえ戦争中です。
 
 そこで2人の兵隊の声をひそめた話し声に耳を傾け、聞くとはなしに聞いた話に私は仰天しました。
 
 1人の兵隊がいうことは、「あなたのような高い学歴のある人が、どうして私のようなものと一緒に、こんな下っぱの兵がする作業をしているのですか。幹部候補生試験を受けて、将校になればよいのに!」。するともう一人の兵隊がいったことは、「この戦争はいずれ負けるに決まっている。負けたら将校はジュネーヴ条約で戦争責任を問われる。大変なことになる」と。
 
 
国民の意識
 今にして思えば、当然のことですが、戦争中の当時としては、正に青天の霹靂(せいてんのへきれき、《晴れ渡った空に突然起こる雷の意味で、急に起きる変動・大事件または突然うけた衝撃》)でした。私はまるで雷に打たれたように、呆然とその場に立ち尽くしたのです。一人の兵隊の言葉の意味が全く分からなかったからでした。
 
 というのは、戦時中、私たち日本人は、この戦争には必ず勝つと教えられ、たとえ、この国が焦土(しょうど、《焼け野原》)と化すことがあっても、最後の一人まで戦い抜くと言う覚悟が、頭に、いや全身に叩き込まれていたからです。学校でも社会でも、全ての教師、マスコミが連日連夜そう叫んでいたのですから。そして皆そう信じて疑わなかったのです。
 
 
中学へ進学
 その年の4月、私は旧制中学の入学試験に合格し、晴れて入学の栄誉を勝ち得ました。当時徳島市郊外の私が通学していた小学校から、約80名の在学生のうち、旧制中学(普通科)へは、2名だけが進学していました。そのほかの生徒は、女学校、商業学校、工業学校、農業学校へ、それぞれ数名が進学したていどで、それ以外の生徒は、高等小学校(2年課程)へ進んでいました。
 
 ところで、その旧制中学校の入学試験は、筆記試験のほか、口述試験も重視されていました。というのは、アメリカを相手に、必死で戦っているのですから、即戦力、すぐに役立つ人材の育成が急務でした。そのために「書いている暇などない。即座に答えを言え」というわけです。
 
 
国民学校での教育
 小学校はドイツのフォルクスシューレに因(ちな)んで、国民学校と改められていました。国家意識に燃えた少国民《年少の国民、少年少女の意味で、第二次大戦中に小学校が国民学校と改名されていたころに用いられた語》を育成するというわけです。6年担当の私の先生は、プリントを作ってくれました。ガリ版といって、油紙に鉄筆で書き、謄写版で刷ったものです。
 
 例えば、こういったものです。問:「日本の軍隊は、なぜ世界一強いのですか」。答:「天皇陛下の御稜威(みいつ、《天皇や神などの威光》)のもと、皇国《天皇の統治する国、日本の呼称として用いられた》将兵が御国(祖国)のために命を投げ出して戦うからです。」これを途中、決してよどむことなく8秒で答えなければならないのです。
 
 とにかく国民学校でも、焼夷弾(しょういだん、《敵の建造物や陣地を焼くことを目的とした砲弾や爆弾》)が落ちてきて家を焼かれるから、それを「火たたき」で叩き消す訓練やバケツリレーで火を消す訓練をさせられました。また米軍爆撃機B29《Bはbomber爆撃機の略、第二次大戦中に登場した米国ボーイング社製の4発重爆撃機》)を高射砲で撃ち落とし、操縦士がパラシュートで降りて来るところを、「竹やり」で突き殺すのだと、そのための訓練もしました。
 
 
認識不足でした
 ところが、これは認識不足による甘い考えでした。日本は、焼夷弾が数発パラパラと落ちてくる程度のことしか想定していなかったのです。実際には、雨あられのごとく、一度に数万発から数十万発もの焼夷弾が落ちてきたのです。消すどころの騒ぎではありませんでした。 逃げ惑うのがやっとで、いや多くの人が逃げられなかったのです。逃げ遅れて焼き殺されたのです。それに日本の高射砲から発射される弾丸は、高さ8,000メートルくらいの高さまでしか届かなかったのです。一方B29は1万数千メートルの上空を悠々と飛んできました。これでは戦(いくさ)になりませんでした。
 
 また、日本人の精神教育の根幹に、日本は神国、天皇は現人神(あらひとがみ)であって人間ではないと言う教育が徹底しておりました。この精神に生徒を含めてほとんどの日本人は洗脳されていました。頭脳明晰、体も丈夫、もっとも優秀な小学6年生が、陸軍幼年学校へ入り、陸軍士官学校、そして陸軍大学へと進み、日本の政治を壟断(ろうだん、《利益や権利を独り占めにすること》)したのです。
 
 陸軍幼年学校では、小説を読むことも禁じられていました。軟弱になってはいけない、というのが理由です。これでは自由も、バランス感覚もあったものではありません。
 
 
玉音放送の意味
 さて、話を元に戻しましょう。昭和20年8月14日を迎えました。「明日の動員は休み。正午に重大放送があるから、各自ラジオを聞きなさい」と言われました。当時、中学校(エリート学校)では、高学年は工場に、低学年は農家の手伝いや戦災の後片付けに動員されていました。授業などありません。中学といえども、少国民として、戦争遂行に当たらねばならないのです。勉強は、各自が、家で、夜せよ、というわけです。
 
 今から思えば、あれは正に、全国民が総狂気、総マインド・コントロールされていたとしか言いようがありません。8月15日正午、今上(きんじょう)天皇(昭和天皇のこと)のいわゆる「玉音放送《天皇が終戦の詔書を読んだラジオ放送》」がなされました。例の「・・敵は今や残虐なる爆弾を・・・、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・。」でした、しかし話が良く聞き取れませんでした。それゆえ「日本はとうとう負けたんだ」と言う者、「いや一時的に休むだけ」と言う者などもいて、世の中は騒然となりました。
 
 
知識は力なり
 その時でした。私は偶然に先月に聞いた、あの不思議な兵隊さんの言葉を思い出したのです。あの時点では世の中の誰も口に(考えも)しなかったことを、どうしてあの人は断言できたのだろうか。どうして将来のことをあのように的確に言いえたのであろうか? 確か、学歴があったと言っていたな。「そうだ、知識だ!」と私は心の中で叫んでいました。
 
 知識があれば、将来を見通せる!日本が戦争に負けたことの一因は、知識が足りなかったために違いない。何が何でも知識を身につけよう。いや知識を積まねばならない! 私はそう固く心に誓いました。
 
 敗戦後には、400万人の失業者が街に溢れ、食べる物のない日々が続きました。そんな時、私は「貧乏とは何か」を究明(きゅうめい、《道理や真理をつきつめて明らかにすること》)すべく意を決しました。その後は、昼は働き、夜は夜間高校で学び、結核と戦いながら、大学、大学院へ進みました。そして会計学の研究者になりました。正義の実現に資することです。会計学ももちろん進化しつつあります。
 
 
私の進んだ道―会計学
 敗戦後の混乱をまのあたりにして、まず、経済の再建こそ急務だと考えました。それで経済学を学び始め、さらに奥へと進むうちに、会計学にたどりついたのです。要するに、物質面における豊かさの追求と社会的正義の実現です。
今、日本はたゆまぬ努力の甲斐あって、豊かな富を手にしています。しかし、世界を見渡せば、なお、多くの人々が貧困に悩まされています。また、足元の日本でも、分配の不公平、社会的格差、といった問題の解決が求められています。
会計学は、企業(など)における経済財のあるべき生産、販売、企業を取り巻く関係者の利害の調整について研究する学問の一つです。究極の目的は、正義の実現に資することです。会計学ももちろん、進化しつつあります。環境会計、環境監査が追求されています。理系の知識武装も緊急の課題です。Warm heart Cool head!とは、経済学者マーシャルの言葉です。「暖かい思いやり、しかしあくまでも冷静さを忘れずに」ということです。
 
 
世界大恐慌
 昭和32年(1957年)、私は、数年に及ぶ永い闘病生活(肺結核療養)を終え、念願の大学入学を果たしました。学業のかたわら、アメリカ人の宣教師にバイブルと英語を学んでいました。
 
 ある日のことです。先生はブラックコーヒーを飲んでおられました。私は何気なく、「砂糖はお入れにならないのですか」とたずねました。その答えに私は、アッと、息を呑みました。先生はこう言われたのです。「私が育った頃、アメリカは不況で、貧乏だった私の家では、砂糖は買えなかったのです。」と。
 
 終戦後、私たち日本人は、夢の国アメリカ、豊かな国、大国アメリカを、イメージしていたのです。そうだったのか、1929年の世界大恐慌! 私の知識として知っていた大恐慌!あっ、あのアメリカで、大不況のため小麦が焼かれ、牛乳が川に捨てられた。そのかたわらで、失業者が、飢えて苦しんだアメリカ!あれは本当に現実だったんだと、はっと思い知らされた一瞬でした。
 
 資本主義経済の矛盾、恐慌は、もちろん19世紀以来頻発していました。しかし、1929年の不況は、最大でした。この前後から、恐慌克服のため、経済学、会計学も一段と進歩、発展を遂げました。もちろん、それがすぐ奏功したか否かは別です。議論の分かれるところです。
 
 なぜなら、アジアでは、日華の紛争、そしてやがて世界は第2次大戦に突入したのですから。この大戦後、アメリカから、占領を期に、わが国へ全ての文物、制度がとうとうと導入されました。
 
 
会計の役割
 その一つに、企業の資金調達を規制する証券取引法(昭和23年制定、以後、改正を重ねる)があります。これは、1930年代、今述べた大恐慌を契機に、アメリカで発足して制度です。企業の株券や社債の発行などについての規制を定めたものです。
 
 これは最近、金融商品取引法に衣替えしました。その一部に会計についての定めがあります。投資する人たちの安全を守る法律です。会計は、その一環を作っています。会計は事業の言語なのです。独特の情報作成の手法なのです。そして情報の正しさを証(あかし)するものこそ、公認会計士、監査法人による、監査なのです。
 
 会計は財産の所有者とその管理運用者との関係、いうならば後者の前者に対する責任遂行の手段の一環なのです。所有者は、財産管理運用の委託者(任す人)、管理運用者は受託者(任される人)というわけです。
 
 古代ローマでは、委託者は貴族、受託者は奴隷でした。奴隷といっても、私たちがイメージするような人ではなく、被征服者で、知識人だったのです。貴族は、政治、軍事、外交に専念したのです。
 
 中世の荘園では、委託者は領主、受託者は執事スチュワードsteward でした。スチュワード、スチュワーデスと言えば、今では飛行機の中で、サービスしてくれるあの人たちを、思い浮かべることでしょう。
 
 スチュワードは、荘園の財政、すなわち台所をきりもりする人、執事を意味しました。近代、現代では、委託者は出資者、投資する人、受託者は、経営者、取締役です。会計は、受託責任会計、スチュワードシップstewardship、アカウンティングaccounting です。投資する人の大事な財産を守り、運用の責任を果たすこと、それが会計にほかなりません。
 
 今、世界を揺るがしているサブプライム問題、それに先立つ、ここ数年のアメリカの経済界でおきている不正会計操作などは、ゆるされないことです。こうした不正は、もちろん徹底的に糾弾、究明されなければなりません。
 
 不正会計の手法の一つに、次のようなものがあります。会社の製品、商品が売れず、業績が伸びないときは、一計を案じます。業績不振が分かれば、銀行は融資してくれず、株価は下がり、増資もできないからです。業績不振を巧妙に隠蔽(いんぺい)するのです。
 
 まず、ペーパーカンパニーとして、子会社を作ります。これは、実質的には、架空のものです。そしてそこへ商品を売ったことにするのです。そして親会社の業績を発表します。早く言えば、世間を騙(だま)すのです。こうして借金など、資金調達(お金集め)を行うのです。
 
 実際、昭和40年(1975年)3月、この手の大がかりな粉飾事件が発覚し、世間を騒がせました。この頃から、こういったことが頻発し始めました。これを防ぐには、どうすればよいか。親会社、子会社の決算を合わせた企業グループ全体の決算を発表すればよいわけです。
 
 すでにアメリカでは、第2次世界大戦前からそれが行われていました。わが国では、この事件の少し前から、少しは研究が始まってはいました。しかし、これを契機に、本格的に対策が打たれるようになりました。しかし、まだまだ油断はできません。手を変え、品を変え、新手(あらて)が登場してきています。巧妙に法規制の網をくぐりぬけようとするのです。
 
 例えば、法令で定めたものでない小規模の子会社、または、そのようなもの、事業組合(これは別の法律で決まっています)を作るとかいったことです。記憶に新しいところでは、堀江貴文の事案もそうです。
 
 
ルイ14世王令
 私は、現代会計と会計発達史について研究を進めています。皆さんは、パリ郊外のベルサイユ宮殿をご存知でしょう。宮殿を造ったのは、フランス国王、ルイ14世です。「朕(わたし)は国家なり」と言ったといわれる絶対王政君主、太陽王です。
 
 当時フランスは、イギリス、オランダと経済的覇権(はけん)を競い、重商主義という政策をとっていました。熾烈(しれつ)な競争のもと、不正もはびこっていました。中には、倒産していないのに、倒産したと偽って、借金を踏み倒す輩(やから)もいる始末です。
 
 そこでルイ14世は決意しました。事業をする者は、帳簿をつけ、財産がいくらあるか、その目録を作りなさいと、王令(1673年)を発しました。もし破産したら、帳簿や目録を裁判所に提出し、その真実なことを立証しなさいと。そして破産したとき、もし帳簿をつけず、財産目録を作っていなかったら、詐欺破産とみなす。詐欺破産は死刑に処せられることもあると定めたのです。事実、加辱刑を科せられた犯人は、パリ市中を引き回されました。
 
 このようなことがもりこまれた経済活動をする人たちについての法律ができたのです。このようにして、世界で始めての商法が制定されました。この商事王令の研究で、私は、神戸大学より、経営学の博士号をいただきました。このような研究を行うには、英語、ドイツ語、フランス語、イタリヤ語などの修得が求められます。
 
 
インフレーション
 私のもう一つの研究テーマは、現代の価格変動会計です。皆さんは、インフレーションの怖さを知っていますか。物価が急激に、猛烈に上がることです。世上知られる最大のインフレーションは、第1次世界大戦後のドイツで起きました。物価がわずか数年のうちに、何万倍、何十万倍にあがったのです。物価が毎日、いや毎時間上がっていったのです。フランスに対する賠償を帳消しにするためだったとの説もありますが、確かではありません。
 
 この頃起きたといわれる逸話があります。ドイツに2人の兄弟がいました。兄は、飲んだくれで、稼いだ金でビールを飲みまくりました。弟は、節約家でせっせと貯金に励みました。ある期間が経ちました。兄は、飲むだけ飲んだ後のビール瓶をしまっていたので、それを売って、何がしかのお金を手にしました。
しかし、弟の貯金は、貨幣価値が下がり、預金通帳は紙切れ同然になってしまいました。
 
 日本でも、第2次世界大戦後、これに似たことが起こりました。社会正義も何もあったものではありません。これは困ります。昭和48年(1963年)の第1次石油ショックの時のインフレは、こんなにひどくありませんでしたが、それなりに相当なものでした。1年あたりのベースアップが、大体25%くらいでした。
 
 当時、私は、日本会計研究学会のインフレーション会計特別委員会で、委員としてインフレーション対策の策定に当たっていました。この研究をもとに、三木内閣と国会に、企業会計審議会(大蔵大臣の諮問機関)からインフレーション対策に対する意見書が出されました。インフレ下では、物価スライド会計が、考えられます。
 
 
文系と理系の区別
 ここで付け加えたいことがあります。現在、高校では、進学組を、文系と理系に分けています。それはそれで一理あるのでしょうが、しかし、あまりこれにこだわるのはよくないことだと思います。
 
 なぜなら、文系組が多く進学する経済学部でも可なり高度な数学を修めることが求められるからです。私がやっている会計学でもファジーな現象を扱うときは、いうに及ばず、その他のときでも高度な数学の知識、ラジランジュの剰余項、といったものが要求されます。さらに現代社会では、文系の人たちがつく仕事でも、高度な理系の知識、例えば、数学が要求されるからです。
 
 文系、理系という分別はあくまで便宜的なことです。あまり、こういった分別にこだわらず、煩わされることなく、未知の分野に興味を持って、どんどん進むことが肝要です。貪欲に学びとり、吸収していくことをお勧めします。
 
 
少年よ 大志を抱け
 最後に、かの有名な札幌農学校の校長であったクラーク博士(Dr.William Smith Clark)の言葉をここまで読んでくれた読者の皆さんに贈ります。
 
Boys, be ambitious!
 “Be ambitious not for money or selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which man call fame. Be ambitious for knowledge, for righteousness, and for the attainment of all that a man ought to be.”
(By Paul Rouland 1915)
 
 
 
青年よ、大志を抱け!
 青年よ、大志を抱け!それは、金銭獲得、利己的栄達のためならず、またいわゆる虚しき名誉を得るためならず。知識の会得、神の正義の実現、汝の国の民の向上のためにこそ、大志を抱け!人が有すべき全てを習得すべく、大志を抱け!
 
 
平成20年7月11日
 
著作者 岸 悦三(えつぞう)
広島修道大学名誉教授
日本会計史学会元会長  経営学博士
 
 
 

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