第23話
 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その1
 

 
 
「おもな対象読者」
 中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたい。
 細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたい。
 
 
 
 
 
「細菌学者歴伝」
 赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出して紹介します。
 シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
 
 
本 文 目 次
1.スパランツァニー、ラザロ
 総ての生き物は生き物より生まれるという原理を確立
2.パストゥール、ルイ
 2-1 狂犬病とはなんだろう
 2-2 手ごわい自然発生説
 2-3 白鳥の首フラスコ
 2-4 科学の魔力的偉大な力
 2-5 43才のとき半身不随となる
 2-6 炭疽病に対するワクチン
 2-7 ワクチンの大成功
 2-8 狂犬病毒の無毒化に成功
 2-9 あなたは今までに何をしたか
 
コッホ以下次号
3.コッホ、ローベルト
4.浅川 範彦
 
編集・著作 田口 文章
 

 
 
 
第22話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その1
 
1.ラザロ・スパランツァニー Lazaro Spallanzani (1729-1799)
総ての生き物は生き物より生まれるという原理を確立
 顕微鏡を発見したオランダのリューベンフックの死の6年後(1729年)に、イタリアに将来の細菌学者ラザロ・スペランツァニーが生まれました。ラザロを法律学者にしようと父親は考えていましたが、ラザロは子どものころから自然科学に興味をもち、「生き物はどのようにして誕生するのか」に疑問を感じ、生物の誕生の謎を解決しようと決心しました。16世紀以来一般に信じられていた「生物は無生物よりできる」との自然発生説は、イギリスの生理学者ハービーが1650年に唱えた「すべて動物は卵より生ずる」との新説により世界中の博学者達は少し動揺してきた時代でありました。
 
 カトリック神父で実験を好むイギリス人のニーダムは、盛んに自然発生説を固持していました (1745年)。ニーダムは、肉汁を煮沸(しゃふつ)したガラスビンの口をコルクで栓をして数日そのままにしておきました。その肉汁を顕微鏡で調べてみると、小さな生き物が活発に運動しているのが観察されました。そこでニーダイムは、この実験成績は「無生物より生物が発生した実験的証明」だと考え、小踊りして喜び、この実験結果をイギリス王立アカデミーに報告しました。
 
 このニーダムの発見は、イギリス王立アカデミーの会員及び世界の有職者を大変に驚かし、世界中で評判となりました。ところが、イタリアのスパランツァニーだけは、このニーダムの発表に納得せず、必ずニーダムの実験にはなにか誤りがあるはずだと考え、どうして煮沸した肉汁から生物が発生したのか一晩中書斎(しょさい)で考えました。
 
 ニーダムの実験は加熱時間が少なかったので生物が生き残っていたのが原因ではないかとスパランツァニーは思いつきました。そこで肉汁をガラスビンに入れて1時間煮沸し、これを密閉するのにニーダムはコルク栓を用いたが、スパランツァニーはコルクの代わりにガラスビンの口を火で熱して細くし、これを溶封しました。スパランツァニーのこの実験では、肉汁は何日たっても透明で腐敗せず小さな生き物の発生も観察されませんでした

 このようしてスパランツァニーは、ニーダムの実験結果をくつがえし、「総ての生き物は生き物より生まれる」という新説を打ち立てました。これを契機としてスパランツァニーの名は全ヨーロッパに響き渡り、世界一流の科学者となりました。ドイツのフリードリッヒ大王は、スパランツァニーをベルリンアカデミーの会員に推薦しました。一方、ドイツのフリードリッヒ大王と何ごとにも競争するオーストラリアの女王マリアテレジアは、スパランツァニーをパビア大学の教授に任命しました。
 
 
2.ルイ・パストゥール Louis Pasteur (1822-1895)
2-1 狂犬病とはなんだろう
 スパランツァニーの死(1799年) から約30年間は、微生物の研究が全く世間から忘れられていました。その間に蒸気機関の発明や電信の開通があって、交通貿易の発達におどろくべき発展がありました。しかし、顕微鏡でしか見えない微生物に人体をたおす偉大な力があること、更にデンプンからアルコールを造る魔力のような力のあることを誰も知る事はありませんでした。
 
 1831年10月のある日、9歳の子どもが、フランス東部の山村において8人の農夫がつぎつぎと狂犬(きょうけん)に咬(か)まれて死亡した惨状を見て、その狂犬の恐ろしさを目のあたりにした少年は、「狂犬とはなんだろう」と父親に聞きました。父親は、「狂犬病は悪魔の仕業(しわざ)である」と答えました。その質問をした子供こそ、のちに大細菌学者となるルイ・パストゥールでありました。この狂犬に農夫がかまれた惨状が科学者パストゥールの原点となったのです。
 
 小学生頃のパストゥールは、注意深い静かな性質で、好んで絵を描いていました。パリに上京してフランス一番の名門校である師範学校に入学したある日、デューマ教授(のちに登場します、記憶しておいてください)の化学研究室の前を偶然に通りかかりました。その時デューマの偉大な人格を慕いパストゥールは、化学に一生をささげることを決意したのでありました。その後パストゥールは、化学実験において酒石酸(しゅせきさん)は2種類の結晶以外に、更に2種類あることを発見して、この時すでに非凡な才能をあらわしました。
 
 パストゥールがストラスブール大学の教授となり、ストラスブール大学の学長のお嬢さんと結婚したのは、歴史上希にみる幸福な家庭をつくる第一歩となりました。パストゥールは、日夜自分の研究室で研究に没頭(ぼっとう)していましたが、夫人は夫が将来大成功することを心から祈っていました。その後、パストゥールは、ストラスブール大学の教授からリール大学理学部の学部長としてリール大学に転出しました。
 
 リール市は、ブトー酒の醸造で名高い所でした。ある日、醸造家ビコーが、パストゥールの研究室を訪ねてきて言うには、今やフランスの多くの醸造家達はブドー酒が腐ってしまう大災害(さいがい)に遭遇(そうぐう)している。ぜひ救済の方法を検討してくれないかとパストゥールにお願いをした。パストゥールは、静かにこれを聞いていましたが、翌日にはそのビコーのブドー酒倉庫を訪ねていました。腐敗して飲めないブドー酒をビンに入れて研究室に持ち帰ったパストゥールは、顕微鏡を使ってその腐敗したブドー酒の検査をはじめました。腐敗したブドー酒の中に丸い酵母のほかに、見慣れぬ酵母より小さく細長い生物が無数に運動しているのを見つけました。
 
 その動く微細な物が何物であるのかを知ろうとし、その夜は、睡眠をとらずに研究に没頭しました。翌日も徹夜をし、腐敗酒にアルコールが検出されず乳酸が存在することを知ったのです。パストゥールは、机をたたいて喜び「酵母は澱粉よりアルコールを作るものであるが、この微細物は乳酸を作るものだろう」と叫んだ。この発見によりブドー酒が腐敗する現象の意味がようやく明らかにされる機運が生まれました。
 
 
2-2 手ごわい自然発生説
 パストゥールは、研究室に助手もお手伝いもいないので、ただ独りで働きました。自分でフラスコなどを洗い、あるいは機器を組み立てもしました。その間に彼の夫人は、彼の唯一の研究補助員でありました。毎晩子供を寝かせた後机に向かい、夫が述べる実験内容を文章に直し、夫が研究室にいる間にその報告書を清書する毎日でありました。彼女は、全生命を夫の研究に捧げていたのでありました。
 
 パストゥールは、自分が卒業した母校であるパリの師範学校の理学部長となりました。しかし、就任してみると、研究室も研究費もありませんでした。学校の屋根裏に小さい部屋を見つけ、ネズミを追い出し、自分のお金で顕微鏡やフラスコを買い研究を始めました。
 
 フランスで醸造されるブドー酒は、ドイツのビールも人が作るのではなく、極めて小さな微生物が作るのであると、パストゥールは周囲の人に説明しました。これをさかいにパストゥールの名は一挙にひろまり、学生時代の先生であったデューマ教授は狂わんばかりに喜び、「我がフランスの最も偉大な学者の一人」であるとまで彼を賞賛しました。
 
 パストゥールは、「発酵が微生物による」ものであることを明かにし、また「ブドー酒などの腐敗が雑菌の作用」によるものを証明しました。「雑菌が空気中に存在する」ことを唱えたところ、神はそのような無用のものを造ったはずがない、更に人体に有害である生物を造るはずがないと宗教家は叫んだのでした。
 
 それでもパストゥールはなおも熱心にブドー酒の腐敗は、空気中の雑菌が混入するためであることを証明するための実験を続けました。自然発生説論者が主張する「空気を遮断するために無機物、蛋白質などから微生物が発生しなくなるのだということに反証する目的で、フラスコの口を引き伸ばしてそれを火で加熱すれば腐敗しないことを証明しました。しかし、反対者は、空気を熱するとその生命発生の活力を失うためだとパストゥールを功撃してきました。
 
 
2-3 白鳥の首フラスコ
 ある日バラー教授が、パストゥールの研究室を訪ねて来ました。バラー教授は、薬物学者で「臭素 Brを発見」し学界を驚かした人です。彼がパストゥールの実験を見て、『君は一人でそれほどまでに苦労する必要もあるまい。フラスコの首を火炎で加熱し、引き伸ばして、白鳥の首のように曲げてみたらどうかね。雑菌は空気中のゴミとともに長い首のところに付着するが、空気はフラスコの肉の「スープ」にまで自由に達することができるが、スープが腐敗することはないだろう』と言った。その時、バラー教授は鉛筆を取って気軽にツルの首のようにしたフラスコの図を描いてみせ、明日また来て見ようと言って帰っていきました。
 
 パストゥールは バラー教授の言うとおりの実験を早速に試してみました。実験は見事に成功しました。バラー教授は、これを見て喜んで言われました。なるほど、これは空気中のゴミとともに雑菌がこのフラスコの細い首に付着したためである。パストゥールは、全くそうであると信じたいとおもいましたが、しかし、それをどのようにして証明できますでしょうかとバラー教授に質問しました。バラー教授は、それはむずかしくないことだ。この数個のフラスコの1個を取り、斜めにして、内に入っている肉の「スープ」を首のところまで流せば、必ず「スープ」は腐敗するであろう、と簡単に言ってのけたそうです。パストゥールはそのとおりに実験をした。結果は、また見事に成功したのでありました。
 
 しかし、自然主義者達、たとえば、プーシェ(ルーアン博物館長 )、ジョリー教授とムュゼ (トゥルーズ大学の自然主義者)などは、共同してパストゥールに反撃してきました。彼らはパストゥールの実験と同様に、ただし酵母の代わりに枯草の煮汁をフラスコに入れて、その細い首を閉じました。微生物のいるはずがないと思われるピレーネ山脈の頂上にまでよじ上って、山頂にてその細い首を折ってから下山し、これをフランキに納めました。数か月の後に微生物が発生してフラスコの内容液が濁ったのを見て、彼らはパストゥールに対する勝利の声をあげました。
 
 英国人チンダルが、枯草の煮汁には枯草菌(こそうきん)という細菌が存在し、これが強固な芽胞をつくることを発見したのは、その数年後のことでありました。このような経緯から、パストゥールの自然発生説を否定する実験の正確なことが、初めて立証されたのです。これはノーベル賞級の研究です。
 
 
2-4 科学の魔力的偉大な力
 パストゥールは、コンピーニュ宮殿で皇帝ナポレオン三世に拝謁(はいえつ)しました。顕微鏡を取り出して色々な標本を皇帝に見せて説明しました、病気は必ずこのような微生物により起るのであろうとの意見を申し上げたと言われています。
 
 「科学はぜいたくな遊戯でも趣味や道楽でもなく、国家を益するために存在するものである」との考えを示すために、パストゥールは助手のデュクローとパストゥールの故郷アルボアに行き、ブドー酒の研究を始めた。ガスもない片田舎のアルボアにおいて、デュクローは種々と工夫して小さな研究室を作りました。酸敗したもの、苦味のもの、粘稠のもの、油状のものなどのブドー酒を取り寄せて研究を開始しました。パストゥールは、ある日ブドー酒の鑑定家達を集めて、「私はブドー酒の腐敗したものをこの顕微鏡であてるから、諸君のプロの鑑定技術と比べてみよう」と言い出しました。鑑定家達は、赤い丸い鼻で臭をかぎ分け、更に舌に載せて味わって出した結果と、パストゥールがただ1滴のブドー酒をガラス板の上に載せて顕微鏡で観察して出した結果は、ぴたりと一致したのでした。
 
 そこでパストゥールは、どうすればブドー酒の変敗を防ぐことが出来るのかを知る研究を始めました。彼はデュクローとともにブドー酒の発酵が終わった時、そのブドー酒を沸騰点以下で数回加熱して、消毒する法を発明しました。この方法は、ブドー酒を変敗から救済した醸造家への福音で、現在に至るも「Pasteurization低温殺菌」と呼ばれるものであります。この方法の確立によって、フランス国家に巨万の利益をもたらしたことを考えると、科学の魔力的偉大な力に驚かぬ者はいないかもしれません。これはノーベル賞級の研究です。
 
 
2-5 43才のとき半身不随となる
 1865年に不思議な運命が、パストゥールを訪れました。
 彼の恩師ディーマは、パストゥールに絹を作るカイコの病気を解決する方法で相談に来た。ディーマ翁の故郷アレー地方は、南フランスの有名なカイコの産地であるが、微粒子病と称する伝染病のまん延によって、カイコ事業は殆んど全滅の危機に陥ったのでした。
 パストゥールは、初めてカイコの飼育方法や桑の樹 (アレー地方では金のなる木と呼ぶ) を見ました。また「カイコの病気は、皮下組織に存在にする微粒体によることを発見」しました。すぐに農民達に顕微鏡の使用方法を教え、微粒子の検査方法を示し、カイコ病の予防法を講義しました。その後、助手のグルネはパストゥールの研究を継続し、微粒子は生物でカイコの幼虫体内において増殖することを確認し、微粒子による病気の予防法を確立するに至りました。
 
 この年、パストゥールは43才でしたが不幸にして脳出血で、殆んど瀕死の重体に陥りました。研究室ができあがった時に幸いにして回復にむかいました。それでも一生のあいだ半身不髄となってしまったのです。しかし、彼は、転地養生もせず、回復不可能な病体でありながら再度研究に猛進しようと決心しました。 ディーマ翁はパストゥールの成功をみて涙を流して喜んだという。アレー市に偉大な科学者パストゥールの功績を永遠に伝えるために彼の銅像を建てたのはこの時でした。
 
 英国の外科医リスターは、パストゥールに手紙を送って、「化膿の原因は微生物によるとのパストゥールの説より出発して、この考えを外科手術に応用して非常な成功を収めた」ことを報告し、化膿は微生物に原因するとの説は、医学に与える影響は莫大であると賞賛しました。パストゥールはこの手紙を読んで、子供のように小躍りして喜んだと言われています。
 
 
2-6 炭疽病に対するワクチン
 パストゥールは、元来化学者でしたが、発酵の原因を研究して、ブドー酒やビールの醸造方法を改良し、ブドー酒の酸敗する原因を明らかにしました。また、カイコ病の原因とその予防方法を定め、微生物による疾病をとのようにして予防し、また、どのようにして治療すべきかを考えていました。丁度この時期に彼は、血気旺盛な3人の若い助手すなわち、ジュベール、ルーとシャンベランを得ました。
 
 パストゥールは、初めて予防注射のことを思いつきました。牛を極めて軽く病気にさせれば、免疫にすることができると考えた。1878-1880年、彼は炭疽病に対するワクチンを試作して、病気を防ぐ予防注射に成功したのです。この時、パストゥールは58歳でした。
 
 
2-7 ワクチンの大成功
 パストゥールの命を受けて、ルーとシャンベランの二人の助手が、炭疽菌の毒力を弱めて、ワクチンの製造に成功したのは1881年です。パストゥールは、これをフランス科学院に報告しました。この報告を読んだ有力な獣医雑誌の編集長であったロシニヨールはフランス農学会において演説して、 パストゥールの実験結果が果たして真実であるならば、フランスは炭疽病のために、毎年二千万フランの大金を失っているからパストゥールの研究成果は真に国家への一大福音である。しかし、もしそれが間違いであったら、彼の高言を取り消させなければならないと発言しました。
 
 これを聞いた、パストゥールは奮然(むんぜん)と立って、予防接種の実験を大々的に行なうことを決心しました。パストゥールは、ルーとシャンベランの二助手をつれて、プイリールホォールの牧場において48頭の綿羊、2頭の山羊及び数頭の牛に炭疽ワクチンの注射をする実験をしました。議員達、学者達、獣医師等及び数百人の農民がこの野外大実験を見ようと集まりました。パストゥールはビッコをひいて (脳出血快復後のこと) そこに来ました。ある者は彼に同情し、またある者は苦笑していました。この群集の中にロンドンタイムズの新聞記者ブロービッツもいました。
 
 パストゥールは、用意した家畜の半数に第1回のワクチンを注射した後、見物人に用いたワクチンの説明をしました。12日後再び見物人の前にて第2回目のワクチンを注射しました。若い助手チュイリエールは、毎日実験に使っている家畜の体温を検査する役目をおうせつかったが、幸いにして発熱する動物を見出さなかった。この間にルーとシャンベランの頭には、白髪が増えたという。パストゥールは、この実験に成功すれば祖国の名誉のため、また更には応用医学の最も偉大な発見となると固い信念を持っていました。
 
 1881年5月31日、試験家畜にも対照動物にも同じように強毒な炭疽菌の致死量が接種されました。さすがにこの夜だけはパストゥールも、一晩中眠りもせず、また夫人のなぐさめの言葉も耳に入らず、独り黙々として試験の結果を気遣いつつ夜を明かしたと言われています。
 
 1881年6月2日は、パストゥールの研究に対する判決の出る日であった。大臣議員など何百人もの観衆が集りました。ロンドンタイムズのブロービッツ記者も来ていました。午後2時パストゥールは、助手を伴って実験場に現われました。羊の群は一頭ずつ検査されるのでした。ワクチンをされた24頭の綿羊は全て普通にはね廻り草を食べていました。それとは対照的にワクチン注射をされなかった同数の綿羊は、皆歩みも弱々しく見るもあわれな状態で、しかも口や鼻より出血する動物さえいました。こうして予防注射試験は、大成功に終りました。これもノーベル賞級の研究です。
 
 ブロービッツ記者は、ロンドンタイムズに電報を打ち、「ピュイリールホォールの公開実験は、期待を上回る大成功であった」と通信しました。この報道はやがて全世界に伝わりました。フランス政府は、レジオンドンヌール勲章を与えてパストゥールの功績をほめたたえました。
 
 
2-8 狂犬病毒の無毒化に成功
 パストゥールが狂犬病の研究に着手したのは1882年で、すでに60歳になっていました。おそらく少年時代の彼の脳に深くきざまれていた農夫が狂犬におそわれたひさんな出来ごとが、狂犬病研究の動機となったのでありましょう。ある日狂犬病に罹っている犬を研究所に連れて来きて、他の健康な犬を噛みつかせました。ルーとシャンベランは、狂犬にかまれて狂犬になった犬の唾液をウサギやモルモットに注射しました。何回かの繰り返し後パストゥールは、「狂犬病の病毒は神経の中枢に存在するに違いない」との確信を得たとルーに語りました。そして、狂犬の脳をウサギの脳に接種させた。ウサギの頭に穴を開け、そこを通して狂犬の脳を接種しました。3週間後、脳に注射されたウサギは麻痺をおこして死にました。こうして、狂犬病の病毒は人工的には培養出来ないけれどウサギの脳に接種することで病毒を保存できることを証明したのです。
 
 こうしてパストゥールは、実験の基礎条件を確立し得たので、いよいよ本実験に取りかかりました。「ヘコたれるな」と弟子のルーを励まし、狂犬病の病毒をウサギに何百回と繰り返し接種しているうちに、病毒を接種してから発病までの潜伏期間が短縮することを偶然に発見したのです。
 
 潜伏期間の短縮病毒の性質が変化したことによるとパストゥールは考え、この変化したと考えられる病毒を犬の脳に接種しました。病毒が確かに弱まっていることが確認できました。しかし、その犬も最後には発病して死亡したことより、完全に無毒になったという訳ではありませんでした。
 
 次に彼はウサギに接種した狂犬毒を乾燥してみることを試みました。水酸化カリウムを入れたビンにウサギの脳をつるして、乾燥させ1日、2日と乾燥させた脳を犬に注射することを続けました。遂に14日間乾燥させた脳は、全く無毒となり注射した犬は発病しなかったのです。一日毎に乾燥させた脳を犬に一つ一つ接種し、3週間から4週間の潜伏期が過ぎ発病するか発病しないかを待つのでした。この忍耐力のいる試験に打ち勝った天才パストゥールの根気に、おどろかぬ者はいないでしょう。
 
 狂犬病の試験にとりかかって、第3年目の終わりになって、初めてウサギの脳への接種法と乾燥法とによって得た弱毒のワクチンを注射した数頭の犬は、完全に強い免疫となりました。これに強毒な狂犬病を接種したが発病しなかったのです。この証明を得て、初めてパストゥールの努力は酬いられたのでした。これもノーベル賞級の研究です。
 
 パストゥールは、先に炭疽病ワクチンで苦い経験をしたので、この狂犬病予防接種法を、最初にフランスの最高医学者の専門委員会に提出しました。委員会がワクチンの効力を承認したので、ようやくワクチンを人体に応用することになりました。その第一号の人体実験者には、パストゥール自身がなろうとまで考えていました。しかし偶然にも、アルザス州のフォン・マイゼンゴット夫人が9歳の自分の子供をだいて、パストゥール研究所に駆け込んできました。この子供の名前はヨゼフといい、2日前に狂犬に14か所もかみ傷を受けたのでした。
 
パストゥールは、この子供をブルパンとグランシェールの二人の医師にみせました。この二人の医師は、この子どもを診断して、確かに狂犬で死ぬだろうと断定し、パストゥールにワクチン予防注射を勧めました。その瞬間は1885年7月6日の夜で、狂犬の発症予防の世界で最初の注射が行なわれたのであります。幸いにしてこの子供ヨゼフは、発病しないで助かりました。パストゥールの新発見は全ヨーロッパに伝えられ、パリ市のパストゥール研究所を目指して西からも東からも、治療を希望する者が引きも切らずに訪れてきました。
 
 ある日、ロシアのスモレンスクより19人の農夫が、パリに乗り込んで来ました。彼らは19日前に狂犬の狼に咬まれ、そのうち5人は歩けぬほどの重傷を負っていました。彼らの知っているフランス語は、ただ、「パストゥール、パストゥール」という言葉のみでありました。誰もが、彼らが救われるとは考えてもいなかったのです。パストゥールは、すでに手後れなのを知り、ワクチンを朝と夕との2回注射をしました。その結果19人の中3人が発病したのみで、その他の16名はみな健康をとりもどし、元気に故郷へと帰って行きました。これもノーベル賞級の研究です。
 
 ツザールはこれを聴いて、聖アンヌダイヤモンド十字架勲章をパストゥールに贈って感謝の意を表わし、その上10万フランの大金を研究所新築の費用にと寄贈しました。世界各地より寄贈された金銭を合わせてパリ市デュト通にパストゥール研究所が出来たのです。これが現在のパストゥール研究所です。2007年の今年、パストゥール研究所は、創立120周年の記念の年を迎えました。
 
 
2-9 あなたは今までに何をしたか
 パストゥール70才の誕生祝いが1892年ソルボンヌ大学で催されました。この日は、この偉人の人生のなかで、最も記念すべき日となりました。世界各国の有名な学者は、ことごとく参列しました。英国の外科医リスターもその出席者の一人でした。多くの学生も招待されて集まっていました。大統領に伴われてパストゥールが式場に入った時の光景は、まさに凱旋将軍を迎えるような壮観さであったと言われています。近衛兵が、進軍の曲を演奏しました。パストゥールは立って、短い演説を試みましたが、70才の老翁の音声は、ややもすれば絶えようとしました。
 
 最後に、彼は学生の一団に向い、声を張り上げて語りました、「わが青年よ、安逸であつてはいけません。 非難功撃に会って失望してはいけません。研究室と図書室の静粛(せいじゃく)な平和に生きなさい。そうして、君らまず自分に問いなさい。自分は今までに何をしてきたのか、祖国のために尽すことがあったかと。君は人類の進歩及び繁栄のために充分に尽し、無限の幸福を感じるまで励みなさい」。彼の愛国的人道的叫びは永遠にフランス国の学術と文化に生き続けるであろう。
「その1」おわり
 
「志賀潔先生に敬礼 その2」に続く
 
平成19年4月21日
編集・著作 田口 文章(ふみあき)

 
 

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