第11話
 消滅の危機に瀕した言語たち
 

 
 
「主な対象読者」
 中校生から大学低学年生までを主な対象者として書いてあります。
「先生へのお願い」
 少しむずかしいと思われたり、読みにくい漢字に(おくりかな)をつけてあります。中学生には両親が一緒に読んでくださることを望んでいます。
 親子で興味と時間を共有できることを期待しています。
 
 
 
 
 
本 文 目 次
 
1.世界にいくつ言語があるのか?
2.世界でいくつの言語が生き残れるか?
3.言語が消滅したら、何が困るのか?
4.私たちに、何ができるのか?
 
著作 土田滋
 
 

 
 


1.世界にいくつ言語があるのか?

 私たちの住んでいるこの世界で、いったいいくつの言語が話されているのだろうか? よく訊(き)かれる質問だが、これは難しい問題で、世界中どの言語学者(げんごがくしゃ)に聞いてみたところで、正確な数を答えてくれる人はまず見つからないだろう。

 いろいろな理由があるが、そもそも言語と方言と、どこで区別をするのか、その基準がない。たとえば日本語東京方言と琉球(りゆうきゅう)方言、いや琉球まで行かなくても、その手前の奄美(あまみ)方言でもいい。東京方言の話者が奄美方言を耳にしても、ぜったいに理解できないだろう。しかし一般にはどちらも別の言語であるとは言わず、日本語の方言だとされている。

 一方、ドイツ語とオランダ語はどうだろう。その国境(こっきょう)付近では、ごくわずかの方言差しかなく、互いにもちろん理解し合える。なのに二つは別言語とされているのだ。

 つまり言語と方言を分けるのは、純粋に言語学的な基準によるのではなく、たぶんに政治的な意味合いが濃い、ということが分かる。たとえばこれまでになかった物や概念を表す必要が生じたときなどに、オランダ領の住民は標準オランダ語の単語を使うだろうし、ドイツ領の住民ならば標準ドイツ語の単語を使おうとする、といった具合である。

 しかし純粋に言語学的な基準を設けて、もう一度分類し直したらどうなるだろうか。ところがこれまた難しい。いったいどこで言語と方言とを区別すればいいのか、しっかりした基準を設けるのは不可能である。

 それなら、互いに理解できなければ別言語とすればよい。なるほど、これなら明確だが、オランダ語とドイツ語の場合で見たように、地続きだとたがいに隣り合った方言同士の間では理解し合える程度の差しかないのが普通で、つまり言語というのは方言が鎖状に切れ目なく、ずっとつながっている。しかし一方の端の方言と他方の端の方言の話し手では、もはや話が通じない、ということになる。つまり青森方言と鹿児島方言のようなものである。だから理解度では基準にならないことが分かる。

 こういうわけで、世界中にいくつ言語が話されているのか、誰にも正確な数は言えないが、まずは千から千の間くらいだろうというのが、大方の言語学者の一致した意見である。ちょっと少なめに見積もって、ここでは千ということにしておこう。


2.世界でいくつの言語が生き残れるか?

 第二次世界大戦後、多くの国がそれまでの植民地(しょくみんち)支配を脱して独立し、経済的には苦しいながらも自立(じりつ)の道を歩みだした。日本の明治時代を思い出してみよう。富国強兵(ふこくきょうへい)を願うならば、まずはともあれ児童教育を確立し、そして軍隊を持たねばならぬ。そのどちらにも、まずは国語、あるいは公用語をしっかりと定め、教えなければならない。せっかく軍隊を作っても、兵隊同士の言葉がまちまちで通じなかったら、いざというときに、命令が通らない。軍隊としての役にたたないのでは困るではないか。

 このようにして、新興独立国(しんこうどくりつこく)は国語・公用語の確立につとめ、小学校低学年の義務教育を押し進めることになった。非国語すなわち方言、あるいは非公用語の撲滅(ぼくめつ)である。それに手をかしたのが、新聞、ラジオ、テレビなどのマスメディアの急速な発展と普及であった。

 私がフィリピンや台湾で現地調査を始めた1960年代、あるいは1970年代前半ころまでは、ラジオはあってもテレビはなかった。だから昼間働いていた村人たちも、夕食後は9時ころまでゆっくりとこちらの調査につきあってくれたものである。

 テレビが普及した1980年代になると、みんなテレビの前に釘付け(くぎづけ)になり、老いも若きも熱心に連続ドラマなどに見入るものだから、とうてい調査にはならなくなってしまった。そもそも台湾の年寄りは、国語である北京語が分からないのだが、字幕で漢字が現れるから、それを読めばだいたいは分かる。唐や宋代の時代劇だとおもしろいから、こちらもついついテレビ鑑賞にまわって、一緒に口をぽかんと開けて見てしまう。これもよろしくないが、それはおいておくことにしよう。

 若い世代はこうして早くから国語で教育を受け、国語のテレビを見て育つから、いきおい親や曽父母(そうふぼ)の話す自分たち固有の言語を身につける機会がない。大きくなって都会に就職するには、国語ができなければならないとあれば、なおさらのことである。

 このような現象が、現在、世界的な規模で各国に起こっている。21世紀中には、現在ある6千の言語のほとんどが消え失せ、生き残る言語と言えば、おそらく英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語、中国語、インドネシア語、日本語、ヒンディー語など、わずか50から100言語くらいではないかと予想されている。言語が死ぬということは、それだけにとどまらない。言語によって支えられていた固有の文化も滅びてしまう、ということをも意味する。これはおそるべき事態ではなかろうか。


3.言語が消滅したら、何が困るのか?

 生態系の激変のために、多くの動植物が消滅の危機に瀕(ひん)していることについては日本でも比較的よく知られていて、どうにかしなければならないという意識も、日本人全体の中に生まれつつある。

 ところが少数民族の言語もまた消滅(しょうめつ)寸前にあるということは、あまり世間で話題になることもないし、騒がれることもほとんどない。どうしてなのだろうか?

 おそらくそれは、こういう事情もあるだろう。動物や植物は目に見える。だから、以前は身近にいつも見ていたのに、それが見えなくなったとなれば、どうしたんだろう? 農薬のせいではないかしら? 

 それだったら私たち自身のからだにも、なにかよくない影響があるのではないかなどと、自分の身にひきつけて考えることができる。蛍や蝶などがそうだ。身近にはいなかった虎や熊や象なども、動物園やサーカスではおなじみの人気動物である。

 ところが言語は目に見えない。おまけに少数民族の言語が消えたとしても、痛くもかゆくもない。たとえば、日本人ならば、北海道のアイヌ語をちゃんと話せる話者がいなくなってしまったし、毎日の生活でアイヌ語を日常的に使っている人もいなくなった、つまりアイヌ語は死んだと聞いても、そうか、そりゃ残念だった。でも自分には関係ないよね。これだけですんでしまう。ましてや外国の少数民族の言語だったら、そんなものが消えようが生き残ろうが、まったく無関心ですませられる。

 少数民族の言語が消滅してしまって、何がいけないのか?これまでだって、たくさんの言語が死んでいったではないか?それで何か困ったことでも起こったのか?たしかにその通りなのだが、実は死んでもらっては困るのだ。なぜか?

 こんな経験をしたことはないだろうか? あなたがはじめて英語を習いだしたときのことを思い出してもらいたい。英語の発音が日本語とずいぶん違う。fとかthとかいう一つ一つの音が違うだけでなく、pやtやkで終わる音節の方が普通だったりして、難しい。語順も、日本語が主語+目的語+動詞という順に並ぶのに、英語では主語+動詞+目的語と並べなくてはならなくて、これがやっかいである。aとかtheなどの冠詞とかいうわけの分からないものもあって、閉口(へいこう)する。

 長ずるにおよんで英語ばかりでなく、ドイツ語やフランス語やスペイン語や中国語やインドネシア語などを勉強された読者も多かろう。

 これらの言語でもやっぱり発音はそれぞれに難しいし、語順も英語と同じだ。こういう経験を何度もしているうちに、どうも日本語は世界の言語の中にあって、よほど特殊な言語らしいぞ、と思いはじめる。日本語と親類関係にある言語もないらしいし、つまり日本語は世界に冠たる孤立した言語なのだと、ついには信じてしまう。

 ところが世界の多くの言語を調べてみると、なんと日本語みたいに、音節はかならずア・イ・ウ・エ・オのような母音で終わり、子音もエルとアールの区別がなかったりしてひどく簡単な音構造を持ち、しかも語順までも日本語とそっくり同じ、という言語が圧倒的に多いことに気がつく。さらに「昨日私が買った+本」のように、修飾句と被修飾語の語順が日本語のように並ぶか、英語のようにthe book + that I bought yesterday のように逆に並ぶか、あるいは「家+で」のように後置詞をとるかin + the house のように前置詞かなど、いろいろな特徴を取り上げてよくよく調べてみれば、一方の端に日本語語順の言語があり、他方の端に英語などの語順の言語があり、そして中国語のように、主語+動詞+目的語や前置詞である点では英語と同じなのに、修飾句+被修飾語(「昨天我買的+書」)は日本語と同じ、というような、その中間に、数こそ少ないものの、さまざまな組み合わせでさまざまな言語が並んでいるのだということが分かってくる。つまり日本語は特殊な言語でもなんでもなくて、むしろ一方の雄、その代表と言っていいくらいなのだ。

 これがもし世界の多くの少数民族の言語が消滅してしまって、50言語くらいしか残っていなかったとしたらどうなるだろう? 一方の代表とは言えなくなってしまう。やっぱり日本語は変わった言語で、そんな変てこな言語をしゃべる日本人も、変なヤツだということになるかもしれないではないか。

 東京や大阪などの大都会では、ときに電車の中で隣り合ったどこの国の人とも分からない人同士が、私たちにはまるきりちんぷんかんぷんの言語で話し合っている光景にぶつかることがある。あんなに早口で話し合っていて、どうしてあの二人が理解し合っているのか、不思議な気になったことはないだろうか? それも日本人とそっくりな顔つきをしたアジア系の人だったりすると、いっそう不思議に思う。言語学者は、その好奇心が人一倍強い。

 私などはときどき、わざとそばに寄っていって、失礼ですが、何語で話しているんですか? などとたずねたりしてしまう。できることならその場でその言語をちょっと調査してみたい誘惑(ゆうわく)にかられるが、さすがにそこまではできないから、あとでその言語について書かれた本なり記事なりを読んで、ふーん、なるほど、などと感心したりする。そして、日本語や英語などとはずいぶん違う発音や構造を持っていたり、あるいは表し方のあまりの違いに、茫然(ほうぜん)となったりする。

 しかしその中にもほかの言語と共通した特徴が見つかることがある。いや、むしろその方が多いのだ。それがもし世界中どの言語にも共通して存在するようなものであれば、それこそが人間の言語における普遍的な特性(universals)なのだろう、と考えることができるだろう。

 ある言語特徴がユニバーサルかどうか、そしてそれが人間の言語ならばどうしてもそうならざるをえない、何か必然的な理由があるのかどうかを判断するためには、数多くの言語を調べなければならない。それも系統関係のない、地域も世界各地に広がり、互いの影響も考えられないような言語であればいっそうよろしい。ほんの50ばかりの言語、それも多くはインド・ヨーロッパ語族に属する言語であるような50言語に共通した特徴が見つかったからと言って、それは人類の言語に必然的な特徴とはとうてい言えないではないか。つまり、言語の本質を知ろうと思えば、言語の多様性こそが必要であり、大切なのだ。

 しかし、なかにはこういう人がいるかもしれない。「世界中がたった一つの言語で、どこへ行っても同じ言語で用が足りるようになったら、こりゃ便利じゃないか。」

 だがそれは、つまりは地球上どこへ行っても動物は人間しかいなくなった状態と同じである。そりゃ不気味だ、というようなレベルの話しではない。この状態で、人間の身体を研究しようとしたときのことを考えて欲しい。比較対象がなくても、まあ、かなりの程度のことは分かるだろうが、比較するべきほかのものがあれば、もっとよく分かることは自明の理だろう。それも違う構造のものが多ければ多いほどいい。多様性こそが貴いのである。少数民族の多くの言語が消滅してもらっては困る理由の一つもそこにある。

 ここには言語についてばかり述べたが、方言や文化の消失についても事情はまったく同じだ。方言にはおうおうにして古語が残っていることがあり、その言語の歴史を明らかにしようと思ったら、方言なしでは非常に難しい。それは、日本語と親類関係にある言語がないために、日本語の古い時代のことがさっぱり分からないことからも容易に理解できるだろう。また方言でなければ自分の気持ちをぴったり言い表せないということも多い。逆に標準語も方言からさまざまな表現を取り入れることによって、活力を得ることができる。「ど根性」「どえらい」など、強調を表す「ど」が関西方言から標準語に入り、いささか品は落ちるものの、標準語の表現を豊にさせてくれたことは疑いない。これも、方言があるからこそできることなのだ。


4.私たちに、何ができるのか?

 しかしはたの者が、あなた方の言語や方言が消滅してもらっては困るといくら言ったところで、その言語や方言を話す人たち自身がその気になってくれなければ、どうにもなるわけではない。幸いなことに、台湾では自分たちの文化と言語の存続に危機感を抱いている原住民族の先覚者たちも多く、また(県)政府からの援助もあって、小学生低学年向けの入門書や初級読本などが、いろいろな言語で書かれ、出版されるようになった。原住民諸語はローマ字で書かれ、意味は漢文で書いてある。中には録音テープもついていたりするからびっくりする。つい15年、20年前には考えも及ばなかったことだ。しかしこのことは、逆に、いまや小学生の段階で教えなければならないほど、言語や文化の伝承(でんしょう)が断絶(だんぜつ)しかかっている、ということでもある。

 原住民自身が作ったものなら安心だと思ったのだが、これにもとんでもない落とし穴があった。その教科書をよくよく読んでみると、A言語のものはたいへんよくできていて、言語学者が見ても感心するできばえなのに、D言語の教科書は、どうしたことか、音の表しようがおかしい。あるべき音の区別がきちんとなされておらず、ごちゃごちゃなのだ。検定者のところを見ると、なんと旧知の台湾の言語学者の名前がのっている。こりゃいったいどういうわけかと電話して聞いてみると、こういうことなのだそうだ。

 政府はちゃんと言語学者に検定してもらわないと、発行の許可を出さない。そこでその言語学者のところに持ち込んで検定してもらい、彼はまじめにあれこれ改善すべきところを指摘して返却したのだが、編者は自分たちの母語だから自分たち自身が一番よく知っているはず、漢民族のお世話になる必要はないと言い張って、直そうとしないのだそうである。結局は検定をパスするだけに言語学者の名前を使われ、中身はもとのまま、間違いだらけの教科書が出版されてしまったのだという。

 B言語の場合は、教科書はまだ出ていない。しかし各地の教会などでB語の講習会が開かれるようになった。B語にはgとngの区別 がないので、B語聖書の正書法では、ngの音を表すのにgを使っている。

 言語学的には、これでまったく問題ない。さてB語の先生役をかってでたのは漢民族の青年たちで、あまりその言語ができない。単語票に単語を書き込み、それを発音して、B族の小学生たちにB語の単語を教えようというわけだが、gで書いてあるためにgで読んでしまう。

 そもそも中国語には、日本語と同様、音節の頭に現れるng音はないから、正しい発音を期待するのははじめから無理なのだが、それにしても将来、奇怪なB語がまかり通ることになるのかもしれない。先生役をつとめてくれている青年たちの善意と努力には頭が下がるにしても、いささか困ったことである。

 S言語には外国人が作った録音テープ付きの教科書がある。著者は言語学者というふれこみなので、これこそ大丈夫かと期待したのだが、どうもそうでもない。テープも自分で発音したものしか録音されていない。中国人でもないのに中国語なまりの、たとえばkと書くべき音がgと書いてあるばかりか、日本人の耳にははっきりgと聞こえる発音をしている、とんでもないしろものだから、まことにがっかりする。

 このような具合で、消滅の危機に瀕した言語をなんとか保存し、子どもたちに伝えていこうという機運は十分にある。だがそれにもかかわらず、正直なところ、私はこれらの言語はやがて近い将来、日常活発に生きて使われる言語としては、機能しなくなるだろうと思う。それは天下の趨勢(すうせい)というもので、それを無理に押し止めることはできないと考えておいた方がいい。

 それならばどうすべきか。消滅する前に、できるだけ綿密にその言語や方言を調査し、記録に残しておくことだろう。その言語(方言)を自由に操ることのできる年寄りが生きているうちに、辞書を作り、文法を記述し、その言語で書かれたテキストと録音テープビデオを、できるだけたくさん残しておかなければ、百年悔いを残すことになるだろう。言語理論は時代によって変わる。今日主流だった理論もやがていつの日かほかの理論にとって替わられる日が来る。しかし個別言語を記述した言語資料は、価値を失うことはない。それどころか、それらの資料に基づいて、新しい理論が生まれることもありうる。

 それにはまず、どこにどういう言語が何人くらいの話し手によって話されており、子どもたちもまだ話せる状態なのか、すでに子どもたちは別言語を話すようになってしまっているのか、などの基礎的なデータがなければならない。つまり言語の Red databook である。幸いこの面ではユネスコの要請があり、また文部省の理解も得られて、東大文学部に東洋諸民族言語文化部門という、新しい部門ができた。

 そこに世界中のそれらのデータを集めようという構想である。いろいろな制約があって、具体的な運営はなかなか容易ではないが、今後の活動が期待されている。日本言語学会にも「危機言語小委員会」が設けられ、日本言語学会会長や委員長はじめ学会メンバーの努力により、「危機に瀕した言語」シンポジウムなど、各種の活動が行われるようになった。嬉しいことである。

 ところが困ったことに、言語を現地まで行って調査し、正確な記録を書き残すことのできる優れた言語学者はあまりにも少ない。しかも食べ物も十分でなく、虫に食われたり毒蛇やさそりの危険も覚悟しなければならない。安逸な生活になれた最近の若い人には、あまり歓迎されない分野である。また現地調査をするには費用がかかるのに、十分な資金はなかなかままならない。とくに大学院生レベルの若い研究者にとって、資金難は深刻である。台湾ならば近いが、アフリカや中南米となると、旅費だけで何十万もかかってしまう。若手研究者不足と資金不足の二つは、日本だけではなく、世界中どこへ行っても聞かされる共通の悩みでもある。

 それだけに、よき理解者が現れて資金援助を得ることができ、いいインフォーマントも見つかり、調査も成功して、いい論文が書けたときの喜びは、たとえようもなく大きい。理論面で自分の名前を残すのは難しいが、少数民族の言語を一つでもいいから調査研究し、いい論文、本を著すことができたら、自分の名前が永久に残るのだ。若い研究者に、ぜひともこの分野に参入していただきたいものだと、切に願うのである。またこの記事を読んで下さる読者の方々にも、さまざまな形での支援を心からお願いしたいと思う。
 

つちだ しげる 元東大教授・元順益台湾原住民博物館館長)
財団法人統計研究会内
『学際』編集部
学際 No.3号 2001年11月15日


 

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