第3話 ウォルター・リードを英雄にしたウイルス
Walter Reed米陸軍病院
私が勤めていた北里大学は、神奈川県相模原市にあります。相模原市内には旧日本陸軍の施設が幾つも存在していました。その一つの広大な跡地に、極東地区を管轄する米国陸軍の医療本部がありました。医療本部としての司令部に陸軍病院と医学綜合研究所が併設されていました。
終戦後しばらくの間この米陸軍の施設は、日本国内にはない最新の医療研究設備をふんだんに保有し、勤務していた米国軍人も優秀な人達であり、後にノーベル賞を受賞した軍人も研究者として勤務していました。そのため、日本人の若い医師や研究者には最新の教育と研究の場として活用され、ここに出入りを許されていた日本人の多くがその後国際的にも活躍をしています。
米国内にも軍関係の医療研究施設か多く存在しますが、陸軍の医療施設とし一番有名なのがWalter Reed米陸軍病院です。米陸軍としては、軍人としてのウォルター・リードの名前を永遠に彼の名誉と共に残すべく、陸軍最大の病院に彼の名をつけたのです。今回紹介するのは、このウォルター・リード(1851-1902年)を栄誉ある軍人にしたウイルスの奇妙な物語です。
アメリカとスペインの戦争
19世紀には列強と称するヨーロッパの先進数ヶ国が世界各地の力の弱い国を植民地として支配していました。キューバもスペインの領土となっていました。詳しくは勉強していませんが、なにかの理由からキューバを占有していたスペインとキューバの隣にあるアメリカとが戦争になりました。
 1900年当時のキューバには黄熱が猛威をふるっていました。キューバに攻め込んだ、アメリカ兵は黄熱に罹って死亡する者が続出しました。その死者の数は、スペイン兵の弾丸に打たれて死んだのよりも多く、従軍した将兵の3分の1(数千人)が黄熱でたおれたと言われています。そこで登場するのが大統領から黄熱研究委員長としての特別任務でキューバに向かった40歳の陸軍軍医大佐ウォルター・リードでありました。
リードの第一の目的は,黄熱を起こす病原体の発見でした。彼らは黄熱の患者の血液やその他を詳細に検査・研究し、細菌の培養も試みたが,結果は全て陰性に終わり、なんの手がかりも得られませんでした。
リード大佐の業績
リードは、黄熱患者が発生する状態を詳しく観察した。その結果得られた情報は、黄熱は決して患者より患者に伝染しない、患者の出た家屋より一定の距離があり人が行き来しない他の家屋にも患者は出る、患者が死んだ後2週間もたって突然とまた患者が発生することもある等でありました。これらの関係は、何らかの昆虫に病毒が伝わって,その昆虫より黄熱が発生すると考えるよりほかにはありませんでした。リードが蚊を研究しようとしたのは,彼の精確な観察より出発したのであり、正確な学術的研究を実施したいと考えました。ここに人道に対する戦争、人体実験を開始するのでありました。
幾多の困難の後ついにリードは、黄熱は蚊によって媒介されることを突き止めることに成功しました。蚊を駆逐すれば、黄熱を防げることをみいだしたのです。しかし、ウォルター・リードは、1902年に盲腸炎を患い,手術のかいもなく遂に死亡したと記録されていますが、黄熱の人体実験を指揮した責任者としてのストレス・心労も遠因となっているのではないかと推測されます。この人体実験の結果、多くの人の生命を黄熱から救うことが可能となり、この業績によりリードの名前が永遠に残される事となりました。
最後に
黄熱の病原体は、野口英世の死後、マックス・サイラーによりウイルスであることが発見され、黄熱ワクチンが開発されました。サイラーは、後にノーベル賞を受賞しました。
この黄熱の人体実験に関する情報は、「北里柴三郎の秘話」の中に納められている志賀潔著「細菌学を創ったひとびと」の31番目の「リード Reed, W.」を参照して下さい。
『完』